越智孝平
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越智 孝平 | |
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生誕 |
1889年2月3日 日本、愛媛県 |
死没 | 1968年6月25日 |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1910年 - 1937年 |
最終階級 | 海軍少将 |
除隊後 | 松山市長 |
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日[1])は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。
経歴
[編集]愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる[1][2]。1907年、私立北予中学校を卒業し[2]、海軍兵学校(38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した[1][3]。
以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館付武官などを歴任。1931年12月、海軍大佐に昇進し、1933年11月「多摩」艦長に就任。鎮海要港部参謀長、仮称鎮海海軍航空隊設立準備委員長を経て、1936年12月、「比叡」艦長となる。1937年12月1日、海軍少将に進み軍令部出仕、同月4日に待命となり、同月21日に予備役に編入された[1]。
1942年10月、勝田主計、川島義之の勧めで松山市長に就任し、戦時下の対応に尽力。1946年3月、市長を退任した。戦後、公職追放となり[4]、その後は、飯岡マグネート工業会社監査役、田中精機会社取締役などを務めた[2]。