白川福儀
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白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858年10月16日)[1][2] - 1916年(大正5年)1月4日[1][2])は、明治から大正時代の政治家、実業家、教育者。愛媛県松山市長。愛媛県会議員。海南新聞社長。旧姓は門田[1][2]。
経歴・人物
[編集]伊予松山藩士・門田正業の長男として松山城下に生まれ、白川福明の養子となる[1][2]。松山藩校の明教館、石鉄県校や大原観山の漢学塾にて学んだ後、1875年(明治8年)上京して漢学者・三島中州の私塾に入る[1][2]。甲斐や近江の学校教師を務めたのち、1879年(明治12年)に帰郷して県官となるが、間もなく辞職して自由民権運動に傾倒し、長屋忠明や藤野政高らの率いる民権系政治結社・公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟の門田正経と共に担当[1][2]。1884年(明治17年)同社編集長を経て、社長に就任する[1][2]。1887年(明治20年)の三大事件建白運動ではその建白書の起草を担当し、総代として藤野政高らと上京する[1]。
1892年(明治25年)愛媛県議に当選すると議長に推され、1895年(明治28年)まで務める[1][2]。さらに翌年の1896年(明治29年)1月21日、市会の推挙を受け、同年2月7日に松山市長に就任し、1902年(明治35年)1月14日の任期満了まで務めた[1][2][3]。
その後は、教育界に入り、私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)の経営母体である北予中学会の専務理事となり、1904年(明治37年)同校長に就任[1]。1916年(大正5年)1月4日、在職中に没した[1]。没後、北予中学校正門傍に「白川先生頌徳碑」が建立された[1]。