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赤松智城

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赤松 智城
人物情報
生誕 1886年12月23日
日本の旗 日本 山口県周南市
死没 (1960-03-12) 1960年3月12日(73歳没)
出身校 第五高等学校
京都帝国大学文科大学
両親 父:赤松照幢
学問
研究分野 宗教学
研究機関 京城帝国大学
山口大学
博士課程指導教員 松本文三郎
主要な作品 『宗教研究』
『朝鮮巫俗の研究』
学会 宗教研究会
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赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年明治19年〉12月23日 - 1960年昭和35年〉3月12日)は、日本宗教学者

経歴

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出生から修学期

1886年、山口県周南市で赤松照幢の長男として、浄土真宗徳応寺に生まれた。第五高等学校に進学し[1]、3年の時には総代であった。

1940年、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。同大学哲学科は前年の1939年に開設されたばかりであり、宗教学科では松本文三郎に師事。1910年7月に首席で卒業。同大学大学院に進み、一方で仏教大学(現・龍谷大学)で教鞭も執った。大学院には羽渓了諦宇野円空らが在籍しており、学生間ならびに教授陣との交流も活発であり、東京帝国大学と京都帝国大学の有志が集まって[2]1915年に「宗教研究会」(現・日本宗教学会)を設立[3][4]。翌1916年より基幹雑誌である『宗教研究』を刊行した。1920年から1923年まで、欧州留学。

宗教学研究者として(戦前)

1923年6月に帰国し、1924年4月より龍谷大学で宗教学を講じた。1925年には高野山大学教授、1926年には臨済宗大学教授。1927年8月、京城帝国大学教授となった。しかし1941年3月に依願免官し、故郷の山口へ戻った。1941年3月、京都帝国大学文学部講師嘱託を委託された。1942年には、1年間講師として教鞭を執った。1943年1月より、九州帝国大学文学部講師として宗教学を担当。1943年より龍谷大学教授(1947年に依願退職)。

太平洋戦争後

1949年より山口大学文理学部で講師を務め、1950年10月に教授に就任し、社会学を担当[5]。しかし翌1950年12月から二度休職し、1952年に辞職。

1960年に死去した。

研究内容、業績

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専門は宗教学。「宗教研究会」の設立に当初から参加するなどその後の研究の興隆に寄与した。宗教に対するその関心の持ち方は広範なものであったが、主に朝鮮半島モンゴルなどの宗教を研究テーマとした。秋葉隆と『朝鮮巫俗の研究』を刊行している[6]。研究開始当初から、フランス社会学の研究者であるエミール・デュルケームマルセル・モースアンリ・ユベールの研究に関心を寄せており、宗教人類学に関心を抱いていたことがうかがえる。

赤松文庫

1954年3月に山口大学図書館に蔵書を寄贈し、「赤松文庫」となっている[7]。和書592冊、洋書1,649冊。

家族・親族

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  • 父:赤松照幢は僧侶、社会事業家。与謝野礼厳の次男。
  • 母:赤松安子。夫妻で私立徳山女学校を設立するなど、女子教育や社会活動にあたった[8]
  • 祖父(母方):赤松連城(中宇三郎)は僧侶。徳応寺を継いだ。
  • 祖父(父方):与謝野礼厳は僧侶、歌人。
  • 叔父:与謝野鉄幹は歌人。
  • 弟(次男):赤松信麿は夭折。
  • 弟(三男):赤松義麿は美学者。
  • 弟(四男):赤松克麿は社会運動家。
  • 妹(長女):赤松常子は社会活動家。婦人運動に尽力し、後に参議院議員。
  • 弟(五男):赤松五百麿は社会運動家。

著作

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著書
  • 『輓近宗教学説の研究』同文館 1929
  • 『現代の宗教哲学』文科大学講座 イデア書院 1929
  • 『宗教史方法論』共立社 1932
共著
  • 『朝鮮巫俗の研究』(上・外) 秋葉隆共編 大阪屋号書店 1937-1938
  • 『満蒙の民族と宗教』秋葉隆共著、大阪屋号書店 1941
訳書

資料

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  • 全京秀「赤松智城の宗教学散策 : 未刊原稿と写真資料を中心に (坪郷英彦教授退職記念号)」『やまぐち地域社会研究』第14巻、山口地域社会学会、2017年3月、1-12頁、CRID 1050845762389408512 
  • 全京秀「赤松智城の宗教学散策(2) : 未刊原稿と写真資料から見るその多彩な宗教的関心」『やまぐち地域社会研究』第15巻、山口地域社会学会、2018年3月、65-76頁、CRID 1050845762390311936 
  • 朝倉敏夫植民地期朝鮮の日本人研究者についての評価」『民博通信』第128巻、国立民族学博物館、2010年3月、8-9頁、hdl:10502/4561ISSN 0386-2836CRID 1050564287773369600 

脚注

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  1. ^ 43名の同級生の中には、大川周明高田保馬松村武雄(神話学者となる)らがいた。また、ドイツ語を教えていたのは高木敏雄(神話学者)であった。
  2. ^ 顧問は姉崎正治、楠順次郎、松本文三郎、榊亮三郎。
  3. ^ 日本宗教学会
  4. ^ 羽渓了諦1960「赤松智城博士を悼む」『宗教研究』163
  5. ^ 菊地暁「赤松智城論ノオト : 徳応寺所蔵資料を中心に」『人文學報』第94巻、京都大學人文科學研究所、2007年2月、1-35頁、doi:10.14989/71065hdl:2433/71065ISSN 0449-0274CRID 1390572174797198976 
  6. ^ 赤松智城とは - コトバンク
  7. ^ 特殊文庫(山口大学図書館)
  8. ^ 脇英夫編1983「赤松照憧・赤松安子夫妻年譜:社会事業を中心に」『徳山地方郷土史研究』4