赤松持則
表示
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 元中8年/明徳2年12月30日(1392年1月24日)? |
別名 | 別所持則 |
官位 | 右馬助、上野守。 |
氏族 | 赤松氏→別所氏 |
父母 |
父:赤松則祐 養父:別所敦則 |
兄弟 | 義則、時則、満則、持則、義房、有馬義祐、祐秀、妹(細川頼元室) |
子 | 持祐(則康とも) |
赤松則祐の子(義則の弟)として生まれる。この年は不明だが、名前(諱)の「持」の字は足利義持(のちの室町幕府第4代将軍)から受けたものとみられ、この場合、第3代将軍・足利義満の1字を受けた満則(1366年生まれ)より後に生まれたものと思われる。
康応元年/元中6年(1389年)、将軍・義満が厳島神社に参詣の途上、備前牛窓港で一泊したとき、その接待を務めた[1]。元中8年/明徳2年12月30日、明徳の乱で山名氏清と山名満幸が京都に攻め込んできた際、兄・義則や満則と共に二条猪熊において奮戦して山名軍に勝利するも、戦死した[2]。
尚、庶流の別所氏の名跡を継いだとされ、別所持則とも呼ばれる。子孫は赤松家臣の別所氏として続き、別所則治は持則の曾孫とされる。