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貞子女王 (徳川斉匡室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
貞子女王
閑院宮家、田安徳川家
続柄 閑院宮美仁親王の第一王女

称号 裕宮(ひろのみや)
身位 女王( → 降嫁
出生 (1782-05-08) 1782年5月8日
死去 (1825-11-10) 1825年11月10日(43歳没)
配偶者 徳川斉匡
子女 一覧参照
父親 閑院宮美仁親王
母親 文君[1]
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貞子女王(さだこじょおう、天明2年3月26日1782年5月8日) - 文政8年10月1日1825年11月10日))は、江戸時代皇族女王)で、田安徳川家第3代徳川斉匡正室

生涯

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天明2年3月26日グレゴリオ暦1782年5月8日)、閑院宮美仁親王の第一王女として誕生(母:文君)[1]。称号は裕宮(ひろのみや)[1]

寛政5年12月16日1794年1月17日)に、徳川斉匡結婚が定められる[2]。寛政7年10月22日1795年12月3日)、関東下向[1]。同年11月27日1796年1月6日)、徳川斉匡正室となる[1]。なお、下向を11月、降嫁を11月28日とする資料もある[2]

文政8年10月1日1825年11月10日)、逝去[2]。満43歳、数え年45歳。戒名無量院眞壽見阿大姉[2]。同年10月8日1825年11月18日)、上野凌雲院(上野寛永寺内)で葬儀が行われた[2]

貞子女王の没後、天保7年(1836年)に貞子女王所生の徳川匡時廃嫡されている。

子女

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注:続柄は斉匡から見たもの。斉匡には貞子女王所生の子以外に20人を超える子がある。

参考文献

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  • 国書刊行会 編『系図綜覧』 第1、国書刊行会、1915年。全国書誌番号:50006721 NDLJP:1879305
  • 鈴木眞年 編『皇族明鑑』 第1、彦根正三、1889年2月。全国書誌番号:21367093 NDLJP:1084576

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e 皇室系図綜覧 1915, p. 89.
  2. ^ a b c d e 皇族明鑑 1889, p. 64.