貞子女王 (徳川斉匡室)
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貞子女王 | |
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閑院宮家、田安徳川家 | |
続柄 | 閑院宮美仁親王の第一王女 |
称号 | 裕宮(ひろのみや) |
身位 | 女王( → 降嫁) |
出生 |
1782年5月8日 |
死去 |
1825年11月10日(43歳没) |
配偶者 | 徳川斉匡 |
子女 | 一覧参照 |
父親 | 閑院宮美仁親王 |
母親 | 文君[1] |
貞子女王(さだこじょおう、天明2年3月26日(1782年5月8日) - 文政8年10月1日(1825年11月10日))は、江戸時代の皇族(女王)で、田安徳川家第3代徳川斉匡の正室。
生涯
[編集]天明2年3月26日(グレゴリオ暦:1782年5月8日)、閑院宮美仁親王の第一王女として誕生(母:文君)[1]。称号は裕宮(ひろのみや)[1]。
寛政5年12月16日(1794年1月17日)に、徳川斉匡と結婚が定められる[2]。寛政7年10月22日(1795年12月3日)、関東に下向[1]。同年11月27日(1796年1月6日)、徳川斉匡の正室となる[1]。なお、下向を11月、降嫁を11月28日とする資料もある[2]。
文政8年10月1日(1825年11月10日)、逝去[2]。満43歳、数え年45歳。戒名は無量院眞壽見阿大姉[2]。同年10月8日(1825年11月18日)、上野凌雲院(上野寛永寺内)で葬儀が行われた[2]。
貞子女王の没後、天保7年(1836年)に貞子女王所生の徳川匡時が廃嫡されている。
子女
[編集]注:続柄は斉匡から見たもの。斉匡には貞子女王所生の子以外に20人を超える子がある。
- 長女:近姫(1800年 - 1830年) - 徳川斉礼(一橋徳川家第4代当主)正室
- 三女:静姫(1803年)
- 次男:匡時(1805年 - 1839年)
- 七女:猶姫(1807年 - 1872年) - 徳川斉荘(田安徳川家第4代当主、尾張徳川家第12代当主)正室
参考文献
[編集]- 国書刊行会 編『系図綜覧』 第1、国書刊行会、1915年。全国書誌番号:50006721。(NDLJP:1879305)
- 鈴木眞年 編『皇族明鑑』 第1、彦根正三、1889年2月。全国書誌番号:21367093。(NDLJP:1084576)