許 (春秋)
国姓 | 姜姓[4] |
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爵位 | 男[4] |
国都 |
1. 許[注 4][2] 河南省許昌市建安区 2. 葉[2][5] 河南省平頂山市葉県南 3. 夷[注 5][2][7] 安徽省亳州市譙城区南東 4. 析[注 6][2][8] 河南省南陽市西峡県 5. 葉[2] 河南省平頂山市葉県南 6. 容城[2][9] 河南省平頂山市魯山県南 |
分封者 | 周の成王 |
始祖 | 許文叔[10] |
最後の君主 | 許伯彪 |
滅亡原因 | 楚により滅亡[注 7] |
史書の記載 | 『春秋左氏伝』(始見は隠公十一年) |
周朝諸侯国一覧 |
許(きょ、中国語: 许国、拼音: Xǔ)は、西周及び春秋時代の諸侯国[12]。爵位は男爵[4]。国君は姜姓[2][4]。建国の君主は許文叔で[10]、許伯彪が最後の君主である。許については歴代君主以外の情報は余りわかっていない[2]。鄭によって滅亡したが[11]、楚によって復活した。楚が国君を廃したことで滅亡した。
地理
[編集]許の地理位置は、数度変わっている。最初は現在の河南省許昌市建安区であった。
春秋時代、鄭や楚等の国の逼迫を受けて、紀元前576年、許の霊公は「葉」(現在の河南省平頂山市葉県南)に南遷した[2][5]。その後、許は楚の附庸国となった。
紀元前538年、許の悼公は「夷」(後の楚の城父邑、現在の安徽省亳州市譙城区南東)に遷都した[2][7]紀元前534年、「析」(後の楚の白羽邑、現在の河南省南陽市西峡県)に遷都した[2][8]。紀元前529年、葉に再び遷都した[2]。紀元前506年、「容城」(現在の河南省平頂山市魯山県南)に遷都した[2][9]。そして、戦国時代初期に楚によって滅亡した。
歴史
[編集]起源
[編集]史書の記載によると、許の国君は斉と祖先が同一で、伯夷の末裔と言われている[4]。
殷周時代
[編集]西周が殷を滅ぼした後に、周の成王は諸侯を大封した。その中で、殷の旧地は姫姓の諸侯国と姜姓の諸侯国に分封された。許国は周朝の分封を受けた姜姓の諸侯国の一国である。始祖は太岳(伯夷)の胤(継嗣)の許文叔で、武王克殷時に大功を挙げて受封された[13]。
春秋戦国時代
[編集]春秋時代、鄭や楚等の諸侯国が非常に強大になり、許国は強国の侵略を受けた。許は弱小で抵抗することができなかったので、友好を求めた。
紀元前654年、楚は許を攻め打った。許は大敗した。そのため「肉袒謝罪」した。楚は満足して、兵を退去させた。
楚の成王の時期、再次許に攻め打った。許の国君は再び「肉袒謝罪」して、和解を請求した。この状況下、許国は楚と鄭の興亡を避けるためには遷都のみが可能であった。
紀元前576年、許の霊公は「葉」(現在の河南省平頂山市葉県南)に南遷した[2]。紀元前538年、許の悼公は「夷」(後の楚の城父邑、現在の安徽省亳州市譙城区南東)に遷都した[2]。
紀元前534年、「析」(後の楚の白羽邑、現在の河南省南陽市西峡県)に遷都した[2]。紀元前529年、葉に再び遷都した[2]。紀元前506年、「容城」(現在の河南省平頂山市魯山県南)に遷都した[2]。その後、許は楚の附庸国となった。
以降許は3から5年ごとに遷都を繰り返した。容城への遷都の後はより長い休止の期間になったが、諸侯の間の争いが続いたため、許は結局併合の憂き目を逃れることはできなかった。
滅亡
[編集]『春秋左氏伝』の記載によると、許男斯の在位中に、楚の国都の郢が呉の攻撃を受けている最中、鄭の攻撃を受けて滅亡した[11]。
その後も、歴史書に何人かの許の君主が記録されている。楚の扶植の下で、許の元公は当地の百姓或いは許国の移民に擁立された可能性が高い。なので、厳密には許国の君主には数えられない。
紀元前481年、楚の恵王は公子結を許の君主に封じた。五世後、戦国時代初期に、許の国君は楚によって退位させられ、許は完全に滅亡した。
滅亡後
[編集]滅亡後、許国の人は中原や江南に移住し、国名を氏とした。これは許姓の由来の一つとして挙げられる。
文化
[編集]許の穆公の妻である許穆公夫人は、中国の歴史で最古の女性詩人であると言われている[14]。
歴代君主
[編集]『漢書』地理志によると「二十四世で楚によって滅亡した」とある。しかし、文献によって実在性が証明されている君主は18人で、青銅器の銘文によって考証されているのも僅か3人である。つまり、合計で21人となり、24人には達しない。その中で、許文叔から荘公の世系が『資治通鑑外紀』に見える[4]。
諡号 | 本名 | 在位年数 | 在位 | 出身 | 資料 | |
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1 | 許文叔 | 丁[13] | 紀元前11世紀 - ? | 伯夷の末裔[4] | 《資治通鑑外紀》[4] 《春秋左傳注》 《清華簡・封許之命》 | |
2 | 徳男 | 翽 | 不明[10] | 許文叔の子[4] | 《資治通鑑外紀》[4] | |
3 | 封 | 不明[10] | 徳男の子[4] | 《資治通鑑外紀》[4] | ||
4 | 孝男 | 宏寛 | 不明[10] | 許伯封の子[4] | 《資治通鑑外紀》[4] | |
5 | 靖男 | 標 | 不明[10] | 孝男の子[4] | 《資治通鑑外紀》[4] | |
6 | 康男 | 昌 | 不明[10] | 靖男の子[4] | 《資治通鑑外紀》[4] | |
7 | 武公 | 雄 | 不明[10] | 康男の子[4] | 《資治通鑑外紀》[4] | |
8 | 文公 | 興父[4] | 幽王・平王時代 | 武公の子[4][10] | 《資治通鑑外紀》[4] 《竹書紀年》 | |
2代不明 | ||||||
11[10] | 荘公 | 茀[4] あるいは苴人[10] |
郁賢皓注在位20年 | 紀元前731年 - 紀元前712年[10] | 宣公の子[4][10] | 《資治通鑑外紀》[4] 《春秋左傳注》 《春秋釋例》 |
12 | 桓公 | 鄭[4] | 14年 | 紀元前711年 - 紀元前698年[10] | 《春秋釋例》曰く荘公の弟 | 《春秋左傳注》 《春秋釋例》 |
13 | 穆公 | 新臣 | 42年 | 紀元前697年 - 紀元前656年[10] | 荘公の弟 | 《春秋左傳注》 |
14 | 僖公 | 業 | 34年 | 紀元前655年 - 紀元前622年[10] | 穆公の子 | 《春秋左傳注》 |
15 | 昭公 | 錫我 | 30年 | 紀元前621年 - 紀元前592年[10] | 僖公の子 | 《春秋左傳注》 |
16 | 霊公 | 寧 | 45年 | 紀元前591年 - 紀元前547年[10] | 昭公の子 | 《春秋左傳注》 |
17 | 悼公 | 買 | 24年 | 紀元前546年 - 紀元前523年[10] | 霊公の子 | 《春秋左傳注》 |
- | 虺 | 悼公の子 | 《春秋釋例》 《春秋左傳注》 | |||
18 | 斯 | 19年 | 紀元前522年 - 紀元前504年 | 悼公の子 | 《春秋左傳注》 | |
19 | 元公 | 成 | 約22年 | 紀元前503年 - 紀元前482年[10] | 悼公の孫 | 《春秋釋例》 《春秋左傳注》 |
20 | 結 | 紀元前481年[注 8] - ? | 元公の子[10] | 《春秋釋例》 《春秋左伝正義》 《通志・氏族略》 | ||
4代不明 | ||||||
妝 | 春秋時代 | 不明 | 《春秋左傳注》 《金文人名匯編》 | |||
将師[注 9] | 春秋時代 | 不明 | 《金文人名匯編》 | |||
彪 | 春秋時代 | 不明 | 《金文人名匯編》 |
系図
[編集]1.許文叔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.徳男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3.許伯封 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4.孝男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5.靖男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6.康男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7.武公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8.文公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
11.荘公 | 13.穆公 | 12.桓公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14.僖公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15.昭公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16.霊公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17.悼公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
許世子止 | 公子虺 | 18.許男斯 | 不明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19.元公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
20.許男結 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 許国 Xǔ (state)(英語版)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “The Regional State of Xu 許”. ChinaKnowledge.de. 2020年4月27日閲覧。
- ^ 許国(中国語版)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『資治通鑑外紀』巻四・周紀二:(桓王)八年,秋七月,斉・鄭・魯伐許。壬午,入許。許荘公奔衛。鄭荘公奉許荘公之弟許叔居許東偏。許,姜姓,与斉同祖,周武王封文叔于許,以奉太岳之祀。文叔之後曰徳男;曰伯封;曰孝男;曰靖男;曰許男;曰武公;曰文公興父;曰荘公茀。荘公之後桓公鄭,疑即許叔也。
- ^ a b 《春秋左氏伝・成公十五年》:「許霊公畏逼于鄭,請遷于楚。辛丑,楚公子申遷許于葉」
- ^ “精選中国地名辞典”. Google books. 2020年5月1日閲覧。
- ^ a b 《春秋左氏伝・昭公九年》:「二月庚申,楚公子弃疾遷許于夷,実城父」
- ^ a b 《春秋左氏伝・昭公十八年》:「楚左尹王子勝言于楚子曰:「許于鄭,仇敵也,而居楚地,以不礼于鄭。晋・鄭方睦,鄭若伐許,而晋助之,楚喪地矣。君盍遷許?許不専于楚。鄭方有令政。許曰:『余旧国也』。鄭曰:『余俘邑也』。葉在楚国,方城外之蔽也。土不可易,国不可小,許不可俘,仇不可啓,君其図之」。楚子悦。冬,楚子使王子勝遷許于析,実白羽」
- ^ a b 《春秋左氏伝・定公十年》:「許遷于容城」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 金栄権著 (2012-07). 周代淮河上游諸侯国研究. 鄭州:河南大学出版社. pp. 107. ISBN 978-7-5649-0686-3
- ^ a b c 『春秋左氏伝』哀公六年:春,鄭滅許,因楚敗也。
- ^ The Zhou Dynasty (1046-256 BCE) was the longest-lasting of ancient China’s dynastiesby Ancient History Encyclopedia
- ^ a b 侯, 建科 (2015), 《清華簡五《封許之命》篇集釋》
- ^ Anne Cunningham (2018). The Most Influential Female Writers. Rosen Young Adult. p. 22. ISBN 978-1508179665
- ^ 《春秋釋例・巻五・世祖譜》:許,姜姓,与斉同祖,堯四岳,伯夷之後也。周武王封其苗裔文叔于許,今潁川許昌是也。霊公徙葉,悼公遷夷,一名城父。又居析,一名白羽。許男斯処容城。自文叔至荘公十一世始見《春秋》。元公子結元年,獲麟之歳也,当戦国初,楚滅之。
- ^ 《春秋左伝正義・隠公十一年》:正義曰:与謀曰及。宣七年伝例也。伝称会于郲,謀伐許。是公与謀也。《譜》云:許,姜姓,与斉同祖,堯四岳,伯夷之後也。周武王封其苗裔文叔于許,今潁川許昌是也。霊公徙葉,悼公遷夷,一名城父。又居析,一名白羽。許男斯処容城。自文叔至荘公十一世始見《春秋》。元公子結元年,獲麟之歳也,当戦国初,楚滅之。
- ^ 《通志・氏族略》:自文叔至荘公十一世始見《春秋》。元公子結元年,獲麟之歳也,当戦国初,楚滅之。
参考文献
[編集]- 楊伯峻『春秋左傳注』、北京、中華書局、2005年。
- Ancient and Early Medieval Chinese Literature (vol.3 & 4): A Reference Guide, Part Three & Four. (2014)