應
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西周早期 - 不詳 | |
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国姓 | 姫姓 |
爵位 | 侯 |
国都 | 應城(河南省平頂山市新華区滍陽鎮) |
分封者 | 不詳 |
始祖 | 應侯 |
滅亡原因 | 楚により滅亡 |
史書の記載 | 『春秋左氏伝』 |
周朝諸侯国一覧 |
應(おう)は、先秦時代の小国。
歴史
[編集]應は殷代に建国された。甲骨文の卜辞の中に「應侯朝商」、商王「歩于應」の記載がある。『水経注』の注引『竹書紀年』には「殷時已有應国」とある。当時の應は山西省朔州市応県一帯に存在した可能性がある。
周朝の武王克殷以後に、應は滅ぼされ、新しい應が建国された。この應は姫姓で、始封の君は周の武王の子。封地は現在の河南省平頂山市新華区滍陽鎮應城。根拠に平頂山に應の墓地があることが考古学的に証明されている。應はもともと監国で、殷の遺民を監視していた。
洛陽平原につながる潁河渓谷の出口の近く、南陽盆地の入口のすぐ近くにあり、長江中部への道路を管理していた[1]。
戦国時代、秦の相国范雎の封地となった(なので、應侯と呼ばれる)。
歴代君主
[編集]- 應侯、周の武王の子。
- 應侯見工、《應侯見工簋》に見える。名は見工。西周中期前段期の人[2]。
- 應釐公、《應侯爯盨》に見える。西周中期前段期の人。子に應侯爯がいる[3]。
- 應侯爯、《應侯爯盨》に見える。名は爯。西周中期前段期の人。父は應釐公[2]。
- 應侯、《應侯簋》に見える。西周中期の人。夫人は生杙姜[2]。
- 應侯、《應侯鼎》等に見える。西周晩期の人。夫人は應姚[2]。
- 應侯、《應侯簋》に見える。西周晩期の人。母は姫原母[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 任偉《西周封国考疑》
- Li, Feng (2006). Axel Menges. ed. Landscape and Power in Early China: The Crisis and Fall of the Western Zhou 1045-771 BC. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-85272-2