許錟
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許錟 허담 | |
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生年月日 | 1929年3月6日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮、咸鏡北道 |
没年月日 | 1991年5月11日 |
死没地 | 北朝鮮、平壌 |
出身校 |
金日成総合大学 モスクワ大学 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
配偶者 | 金貞淑 |
内閣 |
金一内閣 朴成哲内閣 李鐘玉内閣 |
在任期間 | 1973年2月26日 - 1983年12月28日 |
国家主席 | 金日成 |
内閣 |
金日成内閣、金一内閣、 朴成哲内閣、李鐘玉内閣 |
在任期間 | 1970年7月11日 - 1983年12月28日 |
許錟 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 허담 |
漢字: | 許錟、許淡 |
発音: | ホ・ダム |
日本語読み: | きょ・たん |
ローマ字: | Hŏ Dam |
英語表記: | Ho Dam |
許 錟(ホ・ダム、1929年3月6日 - 1991年5月11日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。第4代外務大臣や副首相などを歴任。許淡とも表記する[1]。朝鮮対外文化連絡協会委員長の金貞淑は妻[2]。
経歴
[編集]日本統治時代に咸鏡北道で生まれる。金日成総合大学卒業、モスクワ大学へ留学。
朝鮮労働党入党後、1955年8月から朝鮮労働党中央委員会に勤務。1962年1月に外務次官に就任。その後、第一外務次官に昇格。1970年7月11日、外務相(大臣)に就任し、同年11月の第5回党大会で党中央委員に選出される。1972年、最高人民会議代議員に選出される。同年12月、憲法改正による国家機構の改編が行われて内閣が政務院に改組されると、許は引き続き政務院外交部長(外務大臣)に就任した。1973年2月26日、政務院副総理を兼任。
1980年10月の第6回党大会で政治局員候補となる。1983年11月、党政治局員に昇格し、書記を兼務。同年12月28日、政務院副総理兼外交部長を辞任。1984年1月、祖国平和統一委員会委員長に就任。1989年11月、最高人民会議外交委員長に就任。
1991年5月11日、死去。 1991年5月14日、国葬が行われた[3]。
脚注
[編集]- ^ 独立行政法人日本貿易振興機構のアジア経済研究所が発行する『アジア動向年報』では、ホ・ダムの表記を1970年代までは許淡とし、1980年代に入ると許錟としている。
- ^ 北朝鮮、対外文化連絡委員長に金貞淑氏を任命 聯合ニュース 2010年2月19日
- ^ 「【日誌】――1991.5.11~6.10」『月刊朝鮮資料』第31巻第8号、朝鮮問題研究所、1991年8月1日、80頁、NDLJP:2676982/42。
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