藤原秀能
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 元暦元年(1184年) |
死没 | 延応2年5月21日(1240年6月19日) |
改名 | 秀能、如願(法号) |
官位 | 検非違使大夫尉、出羽守 |
主君 | 源通親 |
氏族 | 藤原北家秀郷流 |
父母 | 父:藤原秀宗、母:源光基娘 |
兄弟 | 秀康、秀能、秀澄 |
妻 | 源秀数娘 |
子 | 秀範、秀茂、秀行、勢恵、秀暹、他女子 |
藤原 秀能(ふじわら の ひでよし/ひでとう)は、鎌倉時代前期の武士・廷臣・歌人。
略歴
[編集]元暦元年(1184年)、藤原北家秀郷流の藤原秀宗の子として誕生。父・秀宗は和田三郎平宗妙の子で、藤原北家秀郷流の養子となった[1]。
最初は内大臣の源通親に仕える。その後、北面武士として朝廷に仕えた。また、建仁元年(1201年)7月に和歌所寄人として輔任されている事から歌人としても朝廷に用いられた。
その後は検非違使大夫尉、出羽守と歴任し、承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。
後に、承久の乱で遠島処分となった後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。
延応2年(1240年)5月21日、死去。享年57。『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集に79首が入集[2]。
系譜
[編集]関連作品
[編集]- テレビドラマ
脚注
[編集]- ^ 和田三郎平宗妙については、浅香年木『治承・寿永内乱論序説 北陸の古代と中世 2』(法政大学出版局、1981年)において、「注記を信頼すれば」という条件付きで和田義盛の弟・和田宗実に比定され、平岡豊「藤原秀康について」(『日本歴史』516号、1991年)、関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012年、ISBN 978-4642064521)。大和典子「「承久の乱」における京方将軍藤原秀康とその周辺」(『政治経済史学』500号、2008年)において、浅香説が紹介されている。しかし、和田義盛と秀能の年齢差からいって、秀康・秀能兄弟が義盛の弟宗実の孫という説にはかなりの無理がある。高橋秀樹『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)は、越後和田氏の関係史料に兄弟の祖父・秀忠や秀康がまったく出てこないことなどを理由に、和田三郎平宗妙は和田宗実と別人であろうと述べている。
- ^ 『勅撰作者部類』