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藤原忠基 (難波家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 忠基(ふじわら の ただもと、康和3年(1101年) - 保元元年(1156年)7月)は、平安時代後期の貴族藤原北家花山院流大納言藤原忠教の長男。官位正三位権中納言

経歴

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白河院政期中期の天永2年(1111年叙爵し、保安3年(1122年侍従次いで右近衛少将に任官。保安4年(1123年崇徳天皇即位すると昇殿を許され、翌保安5年(1124年五位蔵人に任ぜられるなど天皇の身近に仕える。その後は、天治2年(1125年正五位下大治元年(1126年従四位下、大治6年(1131年)従四位上、長承2年(1133年正四位下、長承3年(1134年)右近衛権中将に叙任されるなど近衛次将を務めながら順調に昇進した。

保延2年(1136年)12月に蔵人頭に補せられるが、1週間足らずで参議に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで、引き続き近衛中将を務めたほか、皇后宮権亮皇后藤原泰子)や太皇太后宮権大夫(太皇太后令子内親王)を兼帯し、この間の康治元年(1142年従三位に叙せられている。

久安5年(1149年正三位権中納言に昇進するが、仁平3年(1153年)権中納言を辞して太宰権帥に遷った。保元元年(1156年)7月鳥羽法皇崩御に前後して薨去。

人物

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今鏡』によると、神楽を上手に吹いたとされる[1]。実際には父・忠教ほどの名手ではなく[2]大治2年(1127年雅仁親王五十日祝の御遊では、忠教の応援を受けて笛を吹いている[3]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『今鏡』藤波の中 第五 花の山
  2. ^ 竹鼻[1984: 371]
  3. ^ 『中右記』大治2年11月8日条

参考文献

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