藤原公重 (藤原通季の子)
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藤原 公重(ふじわら の きんしげ、元永元年(1118年) - 治承2年(1178年)9月)は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家閑院流、権中納言・藤原通季の次男。左大臣・徳大寺実能の養子。官位は正四位下・左近衛少将。梢少将と号す。
経歴
[編集]大治3年(1128年)父の通季が没したため、叔父の藤原実能の養子となる。
鳥羽院政期初頭の大治5年(1130年)紀伊守に任ぜられると、最勝寺五大堂造進の功により重任宣旨を受け、保延3年(1137年)まで8年に亘ってこれを務めた。侍従・右兵衛佐を経て、康治3年(1144年)左近衛少将に任ぜられるが、翌天養2年(1145年)正月に少将を止められてしまう。この頃、女性問題により正月の叙位に漏れたとの噂があり[1]、少将辞任もこの問題に関係したものか。その後、仁平元年(1151年)頃に従四位下、保元元年(1156年)従四位上、永万元年(1165年)正四位下と昇進するが、官職に就いた形跡はなく、長く散位であったと見られる。
人物
[編集]歌人として活躍し、永暦元年(1160年)藤原清輔家歌合に参加したほか、治承三十六人歌合では登蓮と並べられる[2]。また、歌人としての佐藤義清(西行)を初めて鳥羽上皇に紹介したとも言われている[3]。
和歌作品が『詞花和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に6首が入首している[4]。家集に『風情集』がある。家集には600余首が採録されているが、恋歌以外の他人への贈答歌は藤原顕広(俊成)・藤原重家・平忠盛らに送った数首だけで、しかも返歌は顕広と忠盛の2首に過ぎない。また、恋歌の相手からの返歌は全く書き留められていない。この贈答歌の少なさから、公重の非社交的な性格が窺われる[5]。
官歴
[編集]- 時期不詳:従五位下
- 大治5年(1130年) 正月28日:紀伊守[6]。12月26日:紀伊守重任宣旨(最勝寺五大堂造進功)[6]
- 保延2年(1136年) 12月13日:見鳥羽院殿上人[7]
- 保延3年(1137年) 正月20日:見侍従[6]。正月30日:兼右兵衛佐[6]。日付不詳:見紀伊守[8]
- 康治元年(1142年) 正月5日:正五位下[9]。7月12日:恐懼(土御門殿方違御幸不供奉)[9]
- 康治3年(1144年) 正月24日?:左近衛少将、元右兵衛佐[10]
- 天養2年(1145年) 正月26日?:止少将[10]
- 仁平元年(1151年)頃:従四位下[11]
- 保元元年(1156年) 正月6日:従四位上[12]
- 永万元年(1165年) 7月26日:正四位下[13]
- 治承元年(1177年) 10月28日:見前少将[14]
- 治承2年(1178年) 9月:卒去[15]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:藤原通季
- 母:藤原忠教の娘
- 養父:徳大寺実能
- 妻:藤原定信の娘
- 男子:藤原実仲
- 妻:中原師遠の娘
- 男子:公源
- 妻:藤原忠基の娘
- 男子:藤原実信
- 生母不詳の子女
- 男子:藤原実基
- 男子:藤原実重
- 男子:禅性
- 女子:高倉院女房帥局、斎宮功子母