興和路
興和路(こうわろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の河北省張家口市の北西一帯に設置された。
元代初期から中期に至るまでは隆興路という名称であったが、ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)即位直後の1312年に興和路に改名された。
歴史
[編集]唐代の新州を前身とする。936年(天顕11年)、遼により奉聖州と改称された。元初には宣徳府が管轄する地域であったが、1262年(中統3年)に撫州(遼・金代の行政区画)を昇格する形で隆興府が設置された[1](この時点で「路」が設置されたとする地理志の記述は誤り[2])。隆興府は高原県・懐安県・天成県・威寧県を管轄し、隆興府設置の翌月には行宮が建設された[3]。その後、1267年(至元4年)に上都路から分離する形で「路」に昇格となり[4]、元代初期には「隆興路」の名で知られるようになった。
1307年(大徳11年)にクルク・カアン(武宗カイシャン)が即位すると、クルク・カアンはそれまでの上都(夏営地)・大都(冬営地)に加えて、中都を隆興路の地に建設することを決定した。1308年(至大元年)、オングチャドの地にて行宮が完成すると、中都留守司が新設されて隆興路は事実上廃止となった[5]。ところが、1311年(至大4年)にクルク・カアンが急死して弟のブヤント・カアンが即位すると、ブヤント・カアンは先帝の側近を粛正してその政策を尽く否定し、その一環として中都の建設も取りやめとなった[6]。1312年(皇慶元年)には「隆興路」は「興和路」と名を改められ、以後この地は興和路の名で知られるようになった[7][8]。
朱元璋が明朝を建国すると、李文忠率いる遠征軍によって興和路は陥落し、興和衛が設置された。
管轄県
[編集]興和路には4県、1州が設置されていた。
4県
[編集]1州
[編集]脚注
[編集]- ^ 『元史』巻5世祖本紀2,「[中統三年十一月]戊申、升撫州為隆興府、以昔剌斡脱為総管,割宣徳之懐安、天成及威寧、高原隷焉」
- ^ 箭内1930,636頁
- ^ 『元史』巻5世祖本紀2,「[中統三年十二月]戊寅……建行宮於隆興路」
- ^ 『元史』巻6世祖本紀3,「[至元四年春正月]戊午……析上都隆興府自為一路、行総管府事」
- ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元年秋七月]壬戌……旺兀察都行宮成。立中都留守司兼開寧路都総管府」
- ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年夏四月]癸亥……罷中都留守司、復置隆興路総管府、凡創置司存悉罷之」
- ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年]冬十月甲子……改隆興路為興和路、賜銀印」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[興和路]興和路、上。唐属新州。金置柔遠鎮、後升為県、又升撫州、西属京。元中統三年、以郡為内輔、升隆興路総管府、建行宮。戸八千九百七十三、口三万九千四百九十五。領県四、州一」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[興和路]県四:高原、下。倚郭。中統二年隷宣徳府、三年来属。懐安、下。元初隷宣徳府、中統三年来属。天成、下。元初隷宣徳府、中統三年来属。威寧、下。元初隷宣徳府、中統三年来属」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[興和路]州一:宝昌州、下。金置昌州。元初隷宣徳府、中統三年隷本路、置塩使司。延祐六年、改宝昌州」
参考文献
[編集]- 箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年