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緋縅力弥 (3代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

緋縅 力弥(ひおどし りきや、安政3年(1856年3月 - 明治21年(1888年9月9日)は、武蔵国豊島郡(現在の東京都中央区)出身で玉垣部屋に所属した元力士。本名は玉垣 辰藏(旧名小柴辰五郎)。10代玉垣。身長は不明。体重は105kg。最高位は東前頭筆頭。

経歴

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幼年時に玉垣部屋に入っていたが、1873年4月、17歳の時に序ノ口の土俵に上がり、相撲人生をスタートさせる。恵まれた体格を持ちながらも、それを活かせず時間がかかったが、1881年5月荒玉辰五郎の四股名で新入幕を果たす。1883年5月に東前頭筆頭の地位に上げたのを機に、玉垣部屋の名大関の緋縅力弥の四股名を継承する(これ以前に緋縅だけは受け継いでいた)。その後、1885年5月より二枚鑑札となり、力士稼業に加え親方業にも励んでいたが、1888年9月9日に長野県での巡業中に、湯田中温泉で急死した。

成績

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  • 番付在位場所数:30場所
  • 幕内在位:15場所
  • 幕内成績:30勝41敗65休13分1預

場所別成績

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荒玉 辰五郎
春場所 冬場所
1873年
(明治6年)
東序ノ口33枚目
 
西序ノ口17枚目
 
1874年
(明治7年)
東序二段34枚目
[1] 
東序二段24枚目
 
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
緋縅 力弥
春場所 夏場所
1875年
(明治8年)
x 東序二段5枚目
 
1876年
(明治9年)
東三段目25枚目
 
東三段目22枚目
 
1877年
(明治10年)
番付非掲載
不出場
西三段目29枚目
 
1878年
(明治11年)
西三段目14枚目
[2] 
西三段目4枚目
 
1879年
(明治12年)
西幕下34枚目
 
東幕下
2–0
(対十両相当)[3]
 
1880年
(明治13年)
西幕下14枚目
3–0
2分
(対十両相当)
 
西幕下9枚目
7–0
3分
 
1881年
(明治14年)
西幕下6枚目
7–1
2分
 
西前頭9枚目
3–0–2
5分
 
1882年
(明治15年)
西前頭5枚目
3–2–2
2分1預
 
東前頭2枚目
2–4–2
2分
 
1883年
(明治16年)
東前頭3枚目
6–1–2
1分
 
東前頭筆頭
0–0–10 
1884年
(明治17年)
東前頭5枚目
6–1–2
1分
 
西前頭筆頭
0–0–10 
1885年
(明治18年)
西前頭4枚目
4–3–1
2分
 
西前頭3枚目
0–0–10 
1886年
(明治19年)
西前頭6枚目
2–7–1 
東前頭7枚目
1–7–2 
1887年
(明治20年)
東前頭8枚目
0–3–7 
東前頭10枚目
0–0–10 
1888年
(明治21年)
東前頭11枚目
2–6–2 
東前頭11枚目
引退
1–7–2
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 1887年までは十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
  • 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。また当時の二段目11枚目以下の星取や勝敗数等の記録については2024年現在相撲レファレンス等のデータベースに登録がなく、特に下位の記録はほとんど現存していないと思われるため、二段目11枚目以下の勝敗数等は暫定的に二段目10枚目以上との対戦の分のみを示す。

改名

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荒玉辰五郎→緋縅辰五郎(1882年1月場所-)→緋縅力弥(1883年5月場所-) [4] [5]

出典

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  1. ^ 東序二段最下位。
  2. ^ 前年12月開催。
  3. ^ 張出。
  4. ^ http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3463&l=j
  5. ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709

関連項目

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