笠雄宗
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笠 雄宗(かさ の おむね、生没年不詳)は、奈良時代の官人。姓は朝臣。官位は従五位下・能登守。名は小宗とも記される。笠御室の子とする系図がある。
経歴
[編集]称徳朝の晩年、従六位上・伊予国員外掾の時に白い鹿を献上した、とある。この出来事に対し、神護景雲4年(770年)5月に称徳天皇が勅を出し、「自分は徳も薄く、さほどの善政を行っていないのに、たてつづけに天からの祥瑞が現れている。去年の11月28日に高円広世が同じく白鹿を献上し、弓削浄人が白雀一つがいを献上している。これは先祖の徳が及んでいる証拠であろう。自分はどんなふうに天への返礼をするべきだろうか。獣は捕獲しがたく、鳥は捕獲しやすい。このことも考慮に入れて量り定めて奏上せよ」、と群臣に諮問している。それに応答した藤原永手・吉備真備ら11人の奏上により、笠雄宗の位両階を進め、絁20疋、綿30屯、布50端、稲2000束を与えた、とある。これにより正六位上に昇叙されている。また、ともに白鹿を捕る者5人には各位1階を進め、牧長1人、挾抄2人には各稲400束を賜い、鹿を捕らえた駈使3人、水手13人には各300束を賜ったともいう[1]。
それから、しばらく記録には現れないが、この間に外従五位下に昇進しており、桓武朝の延暦3年(784年)正月、文室真屋麻呂・藤原真作・大伴永主・石川魚麻呂・紀兄原・佐伯老らととも内位の従五位下に叙爵されている。同年4月、藤原縄主の後任の中衛少将に任命される。翌4年(785年)正月には林稲麻呂の後任の美作介、同年7月には三国広見の後任の能登守と、地方官を歴任している[2]。以後の経歴は不明である。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:従六位上・伊予国員外掾
- 神護景雲4年(770年)5月11日:正六位上
- 時期不詳:外従五位下
- 延暦3年(784年)正月7日:従五位下。4月7日:中衛少将
- 延暦4年(785年)正月9日:美作介。7月17日:能登守
系譜
[編集]- 父:笠御室
- 母:不詳
- 兄:笠蓑麻呂
- 弟:笠望兄
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『続日本紀』4 新日本古典文学大系15 岩波書店、1995年
- 『続日本紀』5 新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年
- 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社学術文庫、1992年
- 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
- 『日本古代人名辞典』2 - p485 - 486、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1959年