竹内吟秋
竹内 吟秋 | |
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生誕 |
浅井直輔 天保2年2月5日(1831年3月18日) 加賀国江沼郡大聖寺 |
死没 |
1913年(大正2年)11月2日 石川県江沼郡大聖寺町 |
墓地 | 加賀市松縁寺 |
国籍 | 日本 |
教育 | 塚谷竹軒、大蔵寿楽、雲林院宝山、ゴットフリード・ワグネル、加藤友太郎、植田豊橘 |
著名な実績 | 陶芸 |
流派 | 九谷焼 |
運動・動向 | 古九谷復興 |
受賞 | シカゴ万国博覧会優等賞 |
影響を受けた 芸術家 | 飯田屋八郎右衛門 |
影響を与えた 芸術家 | 中村秋塘 |
竹内 吟秋(たけのうち ぎんしゅう、天保2年2月5日(1831年3月18日) - 1913年(大正2年)11月2日)は明治時代の陶芸家。通称は直輔、源三郎、諱は知雅、別号は節翁[1]。青年期は武芸に励み、加賀大聖寺藩、石川県に出仕した後、九谷焼作陶に転じ、維新舎主、九谷陶器会社支配人、江沼郡九谷陶器同盟組合頭取、石川県工業学校陶磁科教諭を歴任した。弟浅井一毫も陶芸家。
生涯
[編集]修学
[編集]天保2年(1831年)2月5日大聖寺藩士浅井長右衛門の長男として生まれた[1]。天保9年(1838年)室田某に習字、天保10年(1839年)菅生石部神社大江某に読書を学んだ[2]。
弘化2年(1845年)堀文錦、小島春晁に絵画、弘化3年(1846年)山田十助に真之神道流柔術、七尾篤忠に直心影流剣術を学び、師の没後田中有常に皆伝を受けた[2]。弘化4年(1847年)飯田屋八郎右衛門に陶画を学び興味を持ったが、武術に専念するため10日余りで断念し[3]、嘉永5年(1852年)樋口彦蔵に佐分利流槍術を学んだ[2]。
大聖寺藩、石川県出仕
[編集]万延元年(1860年)3月から慶応3年(1867年)1月まで軍中殿役を務め、慶応4年(1868年)1月大砲方となり、7月京都蹴上の藩警固所に詰め、徒目付加人を兼務した[1]。11月養父が病没したため、明治2年(1869年)1月跡目を継ぎ、徒並、15俵となった[1]。2月帰国し、会計局横目、6月軍務局筆生、8月学政重政寮筆生加人、12月雑掌兼藩学校筆生、明治3年(1870年)3月5日文武学校筆生加人となり、10月雑掌兼藩学校筆生に戻った[1]。明治4年(1871年)11月20日大聖寺県が金沢県に併合されると、12月26日藩校も閉鎖され、無職となった[1]。
明治5年(1872年)石川県大聖寺出張所租税掛となった後、1873年(明治6年)区方副戸長、11月江沼郡第19大区長、1874年(明治7年)4月江沼郡第22大区長、明治8年(1875年)鹿島郡第16大区長を歴任し、帰郷して明治9年(1876年)聯合教育会幹事、義倉会幹事等を務めた[2]。
陶芸の道へ
[編集]1878年(明治11年)古九谷復興のため塚谷竹軒、大蔵寿楽に半年間九谷素地の製法を学び、京都から雲林院宝山を招いて研究に励み、1879年(明治12年)3月維新舎を開校して舎主となった[2]。1880年(明治13年)1月飛鳥井清の九谷陶器会社支配人兼陶工部長に就き、1881年(明治14年)創立事務を終えて維新舎を再興し、上京して江戸川製陶所に学んだ[2]。1884年(明治17年)来県したゴットフリード・ワグネルの指導を受け、1885年(明治18年)再び上京して加藤友太郎、植田豊橘、ワグネルに学んだ[1]。
1886年(明治19年)前田正名により五二会石川県江沼支部監督に指名され、1888年(明治21年)2月江沼郡九谷陶器画工組合頭取、3月陶器研究会会長、1889年(明治22年)4月江沼郡九谷陶器同盟組合頭取を歴任した[1]。
1894年(明治27年)12月石川県工業学校陶磁科講師となり、1897年(明治30年)3月助教諭、1902年(明治35年)5月教諭に進んだ[1]。1907年(明治40年)5月辞職し、奥鷹匠町に工房を設けて陶芸に専念し、1913年(大正2年)11月2日病没した[1]。墓所は鉄砲町松縁寺で、戒名は心誉院秋月良円居士[3]。
作品
[編集]- 色絵金襴手龍虎図大瓶 - 1892年(明治25年)作。東京国立博物館所蔵[4]。
- 色絵竹に鳥図八角皿 - 京都国立博物館所蔵[5]。
- 金彩色絵龍虎図花瓶 - 1893年(明治26年)シカゴ万国博覧会出品。京都国立博物館所蔵[5]。
- 赤絵金彩雲龍図花瓶 - 1908年(明治41年)作。加賀市美術館所蔵[6]。
- 赤絵草花文蓋物 - 石川県立美術館所蔵[7]。
- 色絵鳳凰図花瓶 - 石川県立美術館所蔵[8]。
- 赤絵金彩虎渡海図平鉢 - 石川県九谷焼美術館所蔵[9]。
- 赤絵金彩龍図花瓶 - 石川県九谷焼美術館所蔵[10]。
- 元禄美人図角皿 - 個人蔵[11]。
- 花鳥図花菱形端皿 - 個人蔵[12]。
- 六曲二双屏風 - 1895年(明治28年)8月写。子孫広沢家所蔵[3]。
- 寿老人図掛軸 周文之図 - 1912年(明治45年)夏模。広沢家所蔵[3]。
親族
[編集]- 実父:浅井長右衛門 - 明治4年(1871年)7月病没[1]
- 養父:竹内栄蔵 - 嘉永3年(1850年)縁組。慶応4年(1868年)11月病没[1]。
- 三男:広沢芦秋 - 明治5年(1872年)生。幼名は善吉。陶芸の道に進んだ[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 今井 1993, pp. 8–9.
- ^ a b c d e f 和田 1903, pp. 中ノ31-34.
- ^ a b c d 今井 1993, pp. 4–5.
- ^ “色絵金襴手龍虎図大瓶”. 画像検索. 東京国立博物館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ a b “館蔵品データベース”. 京都国立博物館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ “赤絵金彩雲龍図花瓶”. 石川新情報書府. 石川県商工労働部産業政策課. 2016年3月15日閲覧。
- ^ “赤絵草花文蓋物”. 所蔵品デーテベース. 石川県立美術館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ “色絵鳳凰図花瓶”. 所蔵品デーテベース. 石川県立美術館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ “赤絵金彩虎渡海図平鉢”. デジタル収蔵庫. 石川県九谷焼美術館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ “赤絵金彩龍図花瓶”. デジタル収蔵庫. 石川県九谷焼美術館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ 中越康介. “近現代の名工たち その6”. 九谷焼窯跡展示館. 2016年3月15日閲覧。
- ^ “近代九谷の名工たち その7”. 九谷焼窯跡展示館. 2016年3月15日閲覧。
参考文献
[編集]- 和田尚軒『北国人物志』 初編、北光社、1903年。NDLJP:778722/73
- 今井一良「九谷焼の名工・竹内吟秋と近代水産業の開拓者・関沢明清 ―二人の接点としてのドクトル・ワグネルの存在―」『石川郷土史学会々誌』第26号、石川郷土史学会、1993年。