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秋山光條

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋山 光條
人物情報
生誕 (1843-01-10) 1843年1月10日
江戸
死没 1902年2月19日(1902-02-19)(59歳没)
日本の旗 日本東京都
子供 秋山光夫(美術史家)
学問
研究分野 国学
研究機関 神祇官
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秋山 光條(あきやま てるえ、天保14年(1843年1月10日 - 明治35年(1902年2月19日[1])は、幕末から明治時代国学者

経歴

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1843年(天保14年)、江戸南町奉行同心・秋山和光の子として江戸八丁堀に生まれた。のち神田旅籠町へ移った[1]。幼少期より学を好み、平田銕胤前田夏蔭国学を学び、また歌文を能くした[1]相川景見矢野玄道師岡正胤権田直助角田忠行本居豊穎井上頼圀久保季茲青柳高鞆落合直亮などが師友として挙げられる[1]

明治元年(1868年)に神祇官宣教使に任命され、『日要新聞』を刊行し、国体の発揚・人心の鼓舞をすすめた[1]。しかし、論議が激しくなったことで官省により新聞の発行停止を命じられた[1]。その後、寒川神社宮司出雲大社少宮司三島大社宮司、八坂神社宮司を務めた[1]。明治35年(1902年)には氷川神社宮司となった[1]。同1902年に卒去[1]。墓所は谷中霊園[1]にある。

栄典

家族・親族

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秋山家は、古く甲州武田に仕えたが、武田滅後三州岡崎に住した。その後元文年中江戸に出て北町奉行与力となり、幕末まで七代にわたりその職をついだ[2]

著作

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著書

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 上田萬年『国学者伝記集成: 続篇』国本出版社、p.334-338(1935)
  2. ^ 東文研アーカイブス(秋山光夫)