本居豊穎
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人物情報 | |
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生誕 |
1834年6月5日 日本和歌山県 |
死没 | 1913年2月15日 (78歳没) |
学問 | |
研究分野 | 国学 |
研究機関 | 古学館・教部省 |
学位 | 文学博士 |
本居 豊穎(もとおり とよかい、天保5年4月28日(1834年6月5日)[1] - 大正2年(1913年)2月15日[2])は、明治期に活躍した国学者。本居宣長の義理の曾孫にあたる。幼名稲楠、通称中衛、和号秋屋[3]。
経歴
[編集]父は本居内遠、母は藤子。紀州和歌山に生まれる。父が亡くなった後は、母の教導を得て家学を修め、紀州藩が江戸に設置した藩校古学館の教授となる。
明治維新後はその家系を重んぜられて、神祇官に出仕した。教部省において神道大教正に進んだほか、国学者として東京帝国大学・國學院・東京女子高等師範学校などに講師として招かれた[3]。大正天皇の皇太子時代には東宮侍講を勤め[3]、御歌所寄人・1906年には帝国学士院会員ともなる。また国学・和歌の興隆を願って大八洲学会を主宰した。明治24年(1891年)に三条実美が死去した際に葬儀斎主を務めた[4]。明治42年(1909年)、業績により文学博士号を授与される。大正2年(1913年)2月15日に脳溢血のため死去[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
家族・親族
[編集]男子に恵まれず、同じ国学者の松野勇雄を婿養子に迎えたが、まもなく同家を去った。その後、国学者である雨宮干信(ゆきのぶ)を迎え、干信と娘並子の間に長世が誕生したが、長世が1歳のときに並子が他界した。並子の死後、干信は本居家に馴染めずやむなく同家を去り、 豊穎は残された孫の長世を後嗣とした。
著書
[編集]豊穎の著書には、『古今和歌集』の注釈たる『打聴鶯蛙集』『古今集講義』、歌集『秋屋集』『秋屋集拾遺』、祭詞集『諄辞集』などがある。
- 『大八洲歌集』大八洲学会、1888年。
- 『古今和歌集講義』大八洲学会、1887年-1889年。
- 『車の直路』大八洲学会、1890年。
- 『諄辞集』会通社、1895年。
- 『本居雑考』好古社、1904年。
- 『秋屋集』1902年-1904年。
- 『玉鉾集』稽照館、1892年-1906年。
- 『紫文摘英』日高有倫堂、1906年6。
- 『教育の淵源』金港堂、1911年。
- 『校定古事記』井上頼圀、上田万年共編、皇典講究所、1911年。
脚注
[編集]- ^ 生年は天保9年(1838年)説もある。
- ^ 『官報』第164号、大正2年2月18日。
- ^ a b c 山崎 1920, p. 64.
- ^ 『官報』第2291号、明治24年2月21日。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)309頁
- ^ 『官報』第5415号「叙任及辞令」1901年7月22日。
- ^ 『官報』第6926号「叙任及辞令」1906年7月31日。
- ^ a b 『官報』第163号「叙任及辞令」1913年2月17日。
参考文献
[編集]- 山崎伝之助『和歌山県人材録 前編』和歌山日日新聞社印刷部、1920年。