福原広俊 (隠岐)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永15年(1638年) |
死没 | 元禄8年4月5日(1695年5月17日) |
改名 | 諱: 広次(初名)→広俊 |
別名 | 通称:源三郎 |
官位 | 隠岐守 |
主君 | (毛利秀就→)綱広→吉就→吉広 |
氏族 | 大江姓福原氏 |
父母 | 父:福原元俊、母:口羽元武女 |
兄弟 | 広俊 |
妻 |
正室:右田毛利家毛利元法女 継室:毛利氏女 継室:内藤就勝養女(実内藤就茂女) |
子 |
広頼、就澄 吉川広紀養女(益田就賢室)、広泰 福原広頼養女(毛利広包室、実福原俊応女) |
福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、江戸時代前期の長州藩永代家老、宇部領主福原家15代当主。
生涯
[編集]寛永15年(1638年)、毛利家家老福原隠岐守元俊の子として生まれる。寛永19年(1642年)、幕府の証人(人質)として江戸に下向する。承応2年(1653年)、父・元俊が死去し、翌承応3年(1654年)に家督を相続する。藩主毛利綱広の偏諱(「広」の字)を賜り、広次(ひろつぐ)を名乗る。のち、元俊の1字を取って広俊に改名し、福原広俊を名乗った4番目の人物となる。
寛文元年(1662年)、大頭役を受ける。寛文10年(1670年)、元俊の菩提寺として宗隣寺を再建する。延宝2年(1674年)、江戸当役を受ける。元禄5年(1692年)、当職(国家老・執政)を受ける。
元禄8年(1695年)、病のため当職を辞職し、同年4月5日卒。享年58。
参考文献
[編集]- 「宇部市史」
- 「福原家譜」(東京大学史料編纂所)