福井覚治
Kakuji Fukui | |
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基本情報 | |
名前 | 福井 覚治 |
生年月日 | 1891年5月11日 |
没年月日 | 1930年4月13日(38歳没) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県武庫郡(現・神戸市東灘区) |
経歴 | |
プロ勝利数 | 1 |
成績 | |
初優勝 | 関西オープン(1926年) |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2013年 |
選出部門 | レジェンド部門 |
福井 覚治(ふくい かくじ、1891年5月11日 - 1930年4月13日[1][2])は、日本のゴルフ選手。日本初のプロゴルファーである[2]。
兵庫県出身で、生家が日本で2番目のゴルフ場である「横屋ゴルフ・アソシエーション」の管理に携わったことからゴルフに出会い、1920年にプロとなる。38歳で早世したが、日本においてゴルフを職業とした先駆者であるとともに、後に続くプロゴルファーたちを育てたことでも功績を残した[3]。日本プロゴルフ殿堂で表彰されている[3]。
生涯
[編集]ゴルフとの出会い
[編集]生い立ち
[編集]兵庫県武庫郡(現在の神戸市東灘区)で農業を営む福井藤太郎の二男として生まれる[4]。幼名は覚次郎[4]。福井家は庄屋を務める家で[5]、本庄村
ただし、のちに魚崎村横屋(東灘区魚崎南町付近)に「横屋ゴルフ・アソシエーション」(横屋コース)が開設される際、その北西隅に福井家が位置していたという記録がある[4]。横屋と青木は天上川を挟んで近接関係にある[注釈 2]。
1904年(明治37年)、神戸ゴルフ倶楽部の会員であったウィリアム・ジョン・ロビンソンは、魚崎村横屋の外国人居留民名義の土地を無償で借りてゴルフコースを建設することとし、横屋ゴルフ・アソシエーションを設立した(神戸ゴルフ倶楽部に続き、日本で2番目に古いゴルフ場にあたる)。このとき、コースの工事を依頼されたのが、近所に住む藤太郎であった[10][2]。ゴルフ場を造成する父の手伝いをしたのが、当時12歳であった福井覚治のゴルフとの出会いとなる[2][11]。福井家はゴルフ場の運営・管理を行うこととなり、家はクラブハウスとして使用され、食事の提供やキャディーの手配なども行った[11]。福井覚治もキャディーに従事したが、やがてロビンソンの専属となり、ゴルフを覚えた[10][11]。
ゴルフ草創期の少年キャディーたち
[編集]当時、ゴルフ場で働くキャディーには、近隣の村の少年が募集され、休日に仕事に就いていた[4][12][13]。神戸ゴルフ倶楽部では、最初期には六甲北麓の
キャディーの仕事は倶楽部メンバーの荷物を担ぐことから始まるが、経験が長くなって年嵩になると、年少のキャディーたちを統率するとともに、道具修理・レッスン・接待など、メンバーの身の回りの世話や「雑事」も行うようになる[13]。やがてはメンバーのスタート順にバッグを準備するなど「キャディーマスター」の役割を務めることになる[13]。
ゴルフというスポーツは「アマチュア」である倶楽部会員たちによって運営され発展してきた歴史を持つ[12]。会員たちは少年キャディーたちに道具を与え、ゴルフを教えて、競技者として育てていった[12]。神戸ゴルフ倶楽部ではゴルフを習得した少年キャディーたちによる大会も開かれ、これらの少年キャディーの中から覚治に続く最初期の日本のプロゴルファー(越道政吉・宮本留吉・中上数一など)が生まれることになる[4][12][13]。とくに越道政吉は同郷(青木出身)で、覚治の2~3歳下という幼なじみであり[14]、覚治の「助手」(「弟子」とも表現される)として行動を共にすることになる[14][15]。
ゴルフを仕事にする
[編集]レッスンとクラブ修理
[編集]横屋ゴルフアソシエーションの会員は当初外国人のみであったが、1912年(明治45年)頃に安部成嘉[注釈 3](横浜正金銀行神戸支店長[10])が最初の日本人会員として入会した[4]。はじめて日本人ゴルファーを見た覚治は安部との対戦を望み、勝利した[4]。安部は覚治にゴルフを教えてほしいと頼み、覚治はレッスンを始めることになった[4]。
土地の所有者が変わり(石油会社が買収した[11])、無償使用ができなくなったことから、1914年(大正3年)に横屋のゴルフコースは閉鎖されることとなり[11]、代わって武庫郡鳴尾村(西宮市鳴尾付近)の鳴尾競馬場跡にゴルフコースが造られて鳴尾ゴルフ・アソシエーションが設立された[11]。ロビンソンと安部がコース設計に当たったが[4]、覚治もコース選びや設計に意見を求められた[11](現場監督を務めたとも[4])。ロビンソンは鳴尾に覚治を呼び寄せるとともに[10]、ゴルフの指導やクラブの修理を行うよう勧め、覚治はゴルフに生涯を捧げる決心をしたという[4]。鳴尾ゴルフ倶楽部では日本人の会員も増えて30人ほどとなり[4][18]、覚治がゴルフで生計を立てることに自信が持てるような状況になっていた[4]。
なお、横屋のゴルフコース跡の所有者となった石油会社は土地を利用せず放置していた[11]。このため覚治はコース跡の維持を続け、横屋は事実上覚治のプライベートコースのようになって、ゴルファーたちは従来通りゴルフを行っていたという[11]。覚治は生家近く(現在の青木二丁目)[注釈 4]にゴルフの室内練習場を設けたほか[6]、ゴルフクラブを修理・制作する工房を設けた[14]。工房・練習場には越道政吉が「助手」ないしは「弟子」として従っている[14][15]。
最初のプロゴルファー
[編集]鳴尾のゴルフコースでも土地の使用ができなくなる問題が生じ[注釈 5]、閉鎖されることになった。ゴルファーたちは新たな倶楽部づくりに奔走した[11][注釈 6]。
1920年(大正9年)9月[11]、南郷三郎(のち日本綿花社長)らによって[19]明石市垂水に舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部の前身にあたる[注釈 7])が設立された。福井はコース設計にあたるとともに[20][注釈 8]、プロゴルファー兼キャディーマスターとなった[2][11][20][21]。これをもって覚治は「日本初のプロゴルファー」となったとされる[20][6]。
最初期のプロゴルファーたち
[編集]1920年代、ゴルフ場の開設とともに、プロゴルファーの認定が進んでいく[13]。1922年(大正11年)には、南郷三郎らが土地所有者に働きかけて横屋コースを再建して「甲南ゴルフ倶楽部」を設立[19]、越道がプロとして迎えられた[15]。越道が日本で2人目のプロゴルファーとされている[11][14]。3人目のプロは中上とされるが[13]、当時の資料には不足している部分も多く、プロ黎明期のプロゴルファーが「プロになった時期」を確定できないことも珍しくない[15][13]。
当時は、ゴルフの技術に優れているとともに[22]、ゴルフ倶楽部にとって「コース運営に必要な人材」がプロとして認定される、という性格が強かった[13]。当時の「プロゴルファー」はプレーよりもクラブの修理やアマチュアゴルファーの指導などが主な仕事であり[2]、覚治も全国各地を巡り、アマチュアゴルファーへのレッスンを行った[2]。
覚治はコース管理やゴルフクラブの修理などができ[15]、そのもとには多くの少年キャディーやプロゴルファーを目指す若者が訪れた[6]。覚治は「多くのプロゴルファーを育てた」とされるが[1][2]、その代表として言及されるのが宮本留吉である[1][2]。宮本は覚治の10歳年下で、クラブ修理やキャディー管理を学ぶために覚治のもとを訪れた[23]。「弟子入り」していた期間は半年ほどであったが、2人の交友は深く、また長く続いた[23]。
1926年、後述の第1回日本プロゴルフ選手権大会時点で、日本には7人のプロゴルフ選手がいた。関西には福井覚治(舞子)、越道政吉(甲南)、中上数一、宮本留吉(茨木)、村上伝二(鳴尾)がおり、関東には安田幸吉(東京)、関一雄(根岸)がいた[24]。
先駆者の軌跡
[編集]覚治の事績には、ゴルフ雑誌発行への関与や、ゴルフコースの設計も挙げられる。1922年、伊藤長蔵が発行していた[22]ゴルフ雑誌『阪神ゴルフ』を引き継ぎ、福井覚次郎名義で全国雑誌『GOLFDOM(ゴルフドム)』を創刊している[25](福井が発行人を務めたのは翌1923年まで[25])。『GOLFDOM』は日本初の本格的なゴルフ雑誌とされる[25]。コース設計では、上述の舞子コースのほか、宝塚ゴルフ倶楽部(1926年開設)[3][4][26]や、別府ゴルフ倶楽部(1930年開設、伊藤長蔵と共同設計)[27][28]などにもかかわっている。
1926年7月、茨木カンツリー倶楽部で6人のプロゴルファー(朝鮮の京城に渡っていた中上数一が参加していない[29])が集まり、第1回日本プロゴルフ選手権大会(当時の名称は「全国プロフェッショナル・ゴルファーズ優勝大会」[24])が開催された[24][14]。この大会で覚治は記念すべき第一打を放ったが[24][14]、試合はプレーオフにもつれ込み、宮本留吉が初代優勝者となった[24][14][15]。覚治は「弟子のようなもの」である宮本の優勝を大いに喜び、祝勝会は覚治の家で行われたという[23]。同年11月、同じく茨木で開催された第1回関西オープンでは、2位の中上を8打離して覚治が優勝を飾った[29][30][22]。
その後はほとんど競技会には出場せず、レッスンに専念した[4]。
1930年、肺を患い早世[2]。
家族・親族
[編集]息子の福井康雄・福井正一もプロゴルファーとなった[3][31][注釈 9]。康雄はゴルフレッスンの第一人者とも評された人物であり、倉本昌弘を指導したことが特記される[31]。正一は1970年代にゴルフ解説者としても活躍した[31]。
甥(姉の子)の村木章[33][注釈 10]も覚治に鍛えらえれてプロゴルファーとなり、1930年の日本プロゴルフ選手権で初優勝した。村木章の妻は覚治の長女(いとこ婚)である[33]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 後述の室内練習場が「生家に近い」とある[6]。また、青木五丁目の八坂神社の玉垣に福井の名が刻まれている[7]。
- ^ 甲南ゴルフ倶楽部(横屋コース)の最寄駅は青木駅と案内されていた[8][9]。
- ^ 望月(2004年)では姓を「安倍」としているが[4]、『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』[16]や『人事興信録』[17]によれば「安部」が正しい。
- ^ 武藤一彦の文章では「クラブハウスの向かい」に小屋を建てて工房とし、その隣に雨天練習場を設けたとある[11]。
- ^ 土地所有者であった鈴木商店が工場拡張を計画し[10]、返却を求めたため[18]。
- ^ 1920年(大正9年)には、横屋・鳴尾のゴルフアソシエーションを継承する形で鳴尾ゴルフ倶楽部が設立された[11]。
- ^ 舞子カンツリー倶楽部は昭和戦前期に解散し、ゴルフコースはパブリックコースになっていたが、戦後に倶楽部を再建したものが現在の垂水ゴルフ倶楽部である。
- ^ イギリス人プロゴルファーのグリーンとともに[20]。その後コースには変更が加えられている[20]。
- ^ 日本ゴルフツアー機構によれば、5人の子息のうち3人がプロフゴルファーになった、という[32]。
- ^ 青木出身[34]。
出典
[編集]- ^ a b c “福井覚治”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年8月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “福井 覚治”. 20世紀日本人名事典. 2021年8月25日閲覧。
- ^ a b c d “福井覚治”. 日本プロゴルフ殿堂. 2021年8月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 望月浩 2004, p. 6.
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- ^ a b c d e 望月浩 2004, p. 7.
- ^ 望月浩 2004, p. 5.
- ^ 『全国ゴルフ場案内 : 日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』(ゴルフドム社、1937年)p.38
- ^ 『全国ゴルフ場案内 : 日本ゴルフ年鑑 昭和13年版』(ゴルフドム社、1938年)p.38
- ^ a b c d e “ゴルフをこよなく愛したウィリアム・ジョン・ロビンソン”. 特集 ゴルフ場の100年. 日本ゴルフ協会. 2022年3月26日閲覧。
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- ^ “故・福井覚冶氏ジャパンゴルフツアートーナメント功労賞受賞”. 日本ゴルフツアー機構 (2007年12月23日). 2022年3月26日閲覧。
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- ^ “幸運も後押し? 19打差の記録的優勝/残したいゴルフ記録”. ゴルフダイジェスト. 2022年3月26日閲覧。
参考文献
[編集]- 望月浩「日本最初のプロゴルファー「福井覚治」」『生活文化史-史料館だより』第32号、神戸深江生活文化史料館、2004年。doi:10.24484/sitereports.21483。
- 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年 。