石川忠夫
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石川 忠夫 | |
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生誕 |
1891年8月22日 日本 東京府 |
死没 | 1977年1月3日(85歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
石川 忠夫(いしかわ ただお、1891年(明治24年)8月22日[1] - 1977年(昭和52年)1月3日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]1891年(明治24年)に東京府で生まれた[1]。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第39期卒業[2]。1938年(昭和13年)3月1日、陸軍歩兵大佐進級と同時に西部防衛参謀に着任し[3]、12月10日に独立混成第2旅団参謀(駐蒙軍)に転じて日中戦争に出動した[3]。1940年(昭和15年)3月に近衛師団司令部附となり[3]、陸軍軍医学校教官を務めた[3]。
1941年(昭和16年)8月25日に陸軍少将に進級し[3]、12月1日には歩兵第29旅団長(第11軍・第3師団)に着任[1][2]。1942年(昭和17年)3月6日に支那派遣軍総司令部附となり[1]、11月9日に留守第57師団兵務部長(北部軍[4][5])[2]、1943年(昭和18年)6月に第47師団兵務部長[2]、1944年(昭和19年)7月8日に留守第57師団兵務部長(東部軍[6][7])と歴任した[2]。同年10月14日に独立混成第73旅団長(関東軍・第4軍)に就任し[8]、孫呉に駐屯した[2]。1945年(昭和20年)2月1日に関東軍総司令部附[9]、3月31日に北支那方面軍司令部附を経て[10]、4月15日に第9独立警備隊司令官(支那派遣軍・第43軍)に就任[2][11]。済南に駐屯し[2]、同地の守備に任じて終戦を迎えた[2]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[12]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 福川 2001, 62頁.
- ^ a b c d e f g h i 福川 2001, 63頁.
- ^ a b c d e 外山 1981, 358頁.
- ^ 外山・森松 1987, 745頁.
- ^ 外山・森松 1987, 746頁.
- ^ 外山・森松 1987, 1015頁.
- ^ 外山・森松 1987, 1023頁.
- ^ 外山・森松 1987, 1088頁.
- ^ 「第24号 昭和20年2月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120932700
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 外山・森松 1987, 1262頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」37頁。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。