真如 (東本願寺)
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真如(眞如[1]) | |
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天和2年2月10日 - 延享元年10月2日 | |
幼名 | 光養麿 |
法名 | 眞如 |
号 | 愚海 |
院号 | 功德聚院 |
諱 | 光性 |
尊称 | 真如上人 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | (後の真宗大谷派) |
廟 | 大谷祖廟 |
真如(しんにょ、眞如[1])は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。東本願寺第十七代法主[2] 。東本願寺第十六代 一如の甥。
生涯
[編集]本ページでは、年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つため、貞享元年12月30日(1685年2月3日[3] )までは、宣明暦表示。 貞享2年1月1日(1685年2月4日)からは、貞享暦表示とする(生歿年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。
天和2年2月10日[4](1682年3月18日)、東本願寺第十五代 常如の長男として誕生。近衛家熙の猶子となる[4]。
元禄6年(1693年)8月28日に得度して法眼となり、12月19日に大僧都に任ぜられる。元禄7年(1694年)2月に法印となり、元禄10年(1697年)9月30日に正僧正に転じる[4]。
元禄13年(1700年)4月、一如が示寂し、第十七代法主を継承。元禄14年(1701年)6月16日に大僧正となる。
在職中、大谷祖廟の改築や、難波御堂(現、真宗大谷派 難波別院)や山科別院長福寺の再建を遂げ、また、学寮に講師職を設けるなどの功績を残す。
延享元年10月2日(1744年11月5日)、63歳にて示寂。
脚注
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