熊谷直清 (戦国武将)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄3年(1530年) |
死没 | 慶長2年9月9日(1597年10月19日) |
別名 | 通称:少輔五郎[1] |
官位 | 左馬助[1] |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 桓武平氏国香流熊谷氏 |
父母 |
父:熊谷信直、母:不詳 養父:熊谷直続(叔父)[1] |
兄弟 |
高直[1]、女(野間隆実正室)、 新庄局(吉川元春正室)[1]、直清[1]、 女(天野元明室)[1]、女(山内隆通室)[1]、 広真[1]、三須隆経[1]、女(香川広景正室)[1]、就真[1] |
妻 | 正室:熊谷直続の娘 |
子 | 直顕、直之、宮庄春真、守良、直重 |
熊谷 直清(くまがい なおきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は熊谷信直。父・信直の弟の熊谷直続の婿養子となった。
生涯
[編集]享禄3年(1530年)、安芸国の国人・熊谷氏の当主である熊谷信直の次男として生まれ、男子のいない叔父・直続の婿養子となった。
天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いを初陣とする。天文11年(1542年)、月山富田城の戦いの前哨戦である赤穴城の戦いにおいて養父の直続が討死したため、その家督を継いだ。
その後も毛利氏家臣として各地を転戦したが、慶長2年(1597年)9月9日に病死した。
直清の3代後の熊谷正直は、岩国領主吉川家に仕え、その典医(主治医)となった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション