烏丸光宣
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 慶長16年11月21日(1611年12月24日) |
改名 | 光宣→覚融(法名) |
別名 | 号:顕性院、一字名・丁 |
官位 | 従一位、准大臣 |
主君 | 後奈良天皇 →正親町天皇 →後陽成天皇→後水尾天皇 |
氏族 | 烏丸家 |
父母 | 父:烏丸光康、母:不詳 |
兄弟 | 女(広橋国光室)、男、光宣、女(正親町季秀室)、女(五条為経室)、女(広橋兼勝室) |
妻 | 入江殿(足利義晴の娘)、ほか |
子 | 光広、女(日野資勝室)、女 |
烏丸 光宣(からすまる みつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。 官位は従一位・准大臣 [1]。
生涯
[編集]元亀2年(1571年)4月14日、光宣に足利将軍家から嫁いでいた入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[3]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[3]。また、光宣の出奔により、父の光康が閉門処分となった。
元亀3年(1572年)9月、織田信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置は妥当とするものの、父の光康を赦免するように求めている[4]。
慶長16年(1611年) 11月21日、薨去[2]。享年63歳[2]。
人物
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2。