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山科言継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山科 言継
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正4年4月26日1507年6月6日
死没 天正7年3月2日1579年3月28日
官位 正二位権大納言従一位
主君 後奈良天皇正親町天皇
氏族 山科家
父母 父:山科言綱、母:法印・亮快の娘
兄弟 秦相光室?[1]
葉室頼継の娘
阿茶々(月心恵桂)、阿子、教明言経、女子、薄諸光、女子、阿茶(福禅庵尼)
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山科 言継(やましな ときつぐ)は、戦国時代公卿山科言綱の子。官位正二位・権大納言、従一位。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。

生涯

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山科家藤原北家四条家の分家であり、羽林家の家格であったが戦国期には他の公家と同様不振の時代を迎えていた。天文17年(1548年)には室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領される(天文17年5月25日)という事態に遭遇している。そのような時代の中で言継は家業である有職故実製薬のみならず、和歌三条西公条の門下)、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの多彩な才能の持ち主であった。だが、彼の持った最大の特技は「人脈作り」であった。

言継は山科言綱の子であると言っても正室黒木の方中御門宣胤の子)ではなく、女嬬(宮中に仕える身分の低い女性)の生んだ子が唯一の男子と言うことで後継ぎに立てられた経緯の持ち主で、阿末(下級女房)の世界を知って育ってきたことが、彼の人物形成(幅広い人脈形成や朝廷の庶務への関心)につながった可能性がある[2]

朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として、後奈良正親町両天皇下で逼迫した財政の建て直しを図ることになる。当時の朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金であった。言継はその献金獲得のために各地を奔走することになった。

既に天文2年(1533年)に歌舞音曲を扱う楽奉行として、尾張国織田信秀を訪問して、信秀や平手政秀以下の家臣団に和歌や蹴鞠の伝授を行って人脈を深め、後に天皇即位式に対する信秀からの献金獲得の基盤作りを行った。弘治2年(1556年)には義母(父の正室黒木の方)の叔母にあたる寿桂尼今川義元親子を訪ねて駿河国を訪問し、献金の確約を得た。永禄9年(1566年)には結城氏重臣の水谷正村に働きかけて禁裏御料所回復に成功し、その謝礼に正村の従五位下伊勢守への任官を推挙している。

天文17年(1548年)、室町幕府13代将軍足利義輝が言継の家領である山科郷を押領する事件が発生し、言継は当時義輝の伯父として近江坂本にて後見にあたっていた前関白近衛稙家に善処を求め、稙家の計らいで命令が取り消され、言継は坂本を訪れて稙家夫妻及び慶寿院(稙家妹・義輝生母)に薬を献上し、2年後には朝廷から幕府に対して山科家領の年貢納入の阻止を禁じる女房奉書が発給されている(『言継卿記』天文21年10月3日条)[3]

医業を内職としており、近隣の庶民から依頼を受けると診療を行い、内服薬や火傷の塗薬を調合して与えている[4][5]。室町の小山という薬種屋から麝香竜脳などを購入し、二条の茜屋からはの根を買いいれている。言継邸には中国人の薬売りも訪れていた[4][5]。 このように医療に携わっていたが、天文22年(1553年)9月に言継の四人の子どものうち、阿子という子どもが食中毒にかかった時に、自らはなんの手当てもせずに、専門の医師に頼っていることから、言継の医師としての知識はそんなに専門的ではなかったといえる[6]

永禄の変後には、室町幕府14代将軍・足利義栄将軍宣下の使者となるが、その当日に義栄の対抗馬である足利義昭からも正式な元服の実施と官位昇進要請の使者が来るという事件があったが、言継はこの事態に困惑しつつも臆せずこの要請を受ける返事をした後に仕度をして義栄のいる摂津国に向かっている(なお、昇進要請はその後却下され、元服の方も義昭が独自に行っている)。後に義昭が織田信長に擁されて上洛した際に、義昭は前将軍義栄就任の責任者の処分を朝廷に要求した。言継は使者を務めた自分がその一番の責任者に挙げられると考えて自宅に謹慎していたものの、義昭からは先の仲介を理由に不問とされ、代わりに将軍宣下の儀の手伝いを要請され、信長の家臣・村井貞勝らに装束に関する指導を行っている。

晩年には山科家では初めて権大納言(1569年)に昇進し、織田信長との交渉役としても活躍した。信長もこの年に二条御所築城視察の帰りに山科邸を訪問している。

著書としては自撰歌集『言継卿集』(『拾翠愚草抄』(1527年 - 1541年)と『権大納言言継卿集』(1562年 - 1574年)から成り立つ)と日記『言継卿記』がある。特に後者は大永7年(1527年)から天正4年(1576年)にかけての50年の長期にわたって記されており、当時の公家戦国大名たちや上泉信綱などの動向が詳細に記されているだけでなく、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。

死後300年以上経た大正4年(1915年11月に、朝廷の財政と対外交渉にあたって朝廷の存続に尽くした功績をもって従一位という破格の贈位が行われた。

山科言継墓所、京都市上京区清浄華院

系譜

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  • 父:山科言綱
  • 母:女嬬 藤原氏(氏名不詳、法印・亮快の娘)
  • 養母:中御門宣胤の娘
  • 妻:南向葉室頼継の娘[7]
    • 男子:山科教明(仙菊丸)(1539-1543)
    • 男子:山科言経(1543-1611)
    • 男子:薄諸光(1547-1585) - 薄以緒の養子
    • 女子:阿茶々(月心恵桂、桂侍者)(1534-1565) - 安禅寺[8]
    • 女子:阿子(1537-1556)
    • 女子(1546-?)
    • 女子(1555-?)
  • 妻:女官・左衛門督(氏名不詳)

脚注

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  1. ^ 松室同族會編『洛西松尾月讀社松室家代々考』(松室同族會、1985年)
  2. ^ 松薗斉『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、287-289頁。ISBN 9784784219568NCID BB2719795X全国書誌番号:23141778https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029329045-00 
  3. ^ 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年、97-98頁。ISBN 978-4-7971-0744-9NCID BA73735566全国書誌番号:20884687https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007928266-00 
  4. ^ a b 森谷 1978, p. 59.
  5. ^ a b 阿部 1998, p. 188.
  6. ^ 森谷 1978, p. 60-61.
  7. ^ 水谷惟紗久 (1997年6月). “「古記録にみえる室町時代の患者と医療(2)『言継卿記』永禄九年南向闘病記録から」『日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine』43(2)(1486)”. 日本医史学会/国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年6月29日閲覧。
  8. ^ 松薗斉「続・戦国時代禁裏女房の基礎的研究 : 下級女房たちを中心に」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』第30号、愛知学院大学人間文化研究所、2015年9月、105-127頁、ISSN 0910-8424NAID 120006977046 
  9. ^ a b 清水克行「山科言継をめぐる三人の女性:実母・愛人・長女」『史観』第154号、早稲田大学史学会、2006年3月、1-16頁、ISSN 03869350NAID 110004736756 

参考文献

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関連項目

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