溝延氏
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溝延氏 | |
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一文字に三つ星 | |
本姓 | 大江氏親広流寒河江氏支流 |
家祖 | 溝延茂信 |
種別 | 武家 |
出身地 | 出羽国 |
主な根拠地 | 出羽国 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
溝延氏(みぞのべし)は大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族で日本の氏族。居城は溝延城(現在の山形県西村山郡河北町溝延)。
出自
[編集]溝延の地は最上川とその最大の支流である寒河江川との合流点にあり、溝が延びるような地形であることにその地名の由来があるとされる。溝延城は東を最上川、南を寒河江川で囲まれた天然の要害である。寒河江大江氏の居城寒河江城から寒河江川を越えた地点にあり、北の抑えとして重要な拠点であった。溝延氏は南北朝時代の寒河江大江氏時茂の長子茂信を祖とし、応安元年/正平23年(1368年)漆川の戦いで総大将を務めた茂信は戦死してしまうものの、子孫は白岩氏、左沢氏とともに寒河江氏の支流としてこの地を治めた。 なお、茂信の死に際して家老の安孫子氏が殉死している。
戦国時代
[編集]4代満教が出羽吉川氏から入るも、戦略上の重要度を増した白岩城に移ると家臣の安孫子氏が実権を握った[1]。永禄4年(1561年)の慈恩寺舞童帳によれば、寒河江城主兼広・白岩城主宗広とともに溝延城主雄広[2]も旦那の一人とされており、一定の権威があったことをうかがわせる[3]。また、天正2年(1574年)天正最上の乱においては寒河江氏居城寒河江城攻略に加担するなど、独自性を強めた。しかし、系図(『天文本系図』および『安中坊系図』)と古文書(『舞童帳』や『はとう物覚書』)に白岩城主と溝延城主の混同や差異が見られるなど今後解明されるべき課題は多い。
天正12年(1584年)、出羽統一を図る山形城主最上義光に攻められ、寒河江大江氏とともに滅亡した。家老の安孫子氏(溝延長老(こうえんちょうろう)と呼ばれる)は最上氏の詮議を逃れて慈恩寺に隠れるも、最上院で自害した。溝延城跡付近には現在溝延城址公園が整備されている。
系図
[編集]- 「天文本大江系図」「永正本大江系図」[4]
式部大輔 溝延茂信(1) | 備前守 吉川家広(2) | 吉川元家(3) (六郎) | 備前守 吉川教広 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尊広(七郎) | 備前守 白岩満教(4) | 修理亮備前守 白岩満広(5) (五郎六郎) | 白岩宗広(6) (八郎四郎) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 「安中坊所蔵各歴代」[4]
- 始祖 尊広
- 2代 孝満
- 3代 広継
- 4代 広勝
- 5代 孝政
- 「安中坊系譜」[5]
溝延茂信(1) | 備前守修理亮家広(2) (少輔助二郎) | 備前守元家(3) | 高屋知政 | 高屋知親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尊広(4) (溝延七郎) | 孝満(5) (北又四郎) | 広勝(6) | 孝政(7) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寒河江元高 | 寒河江為広 | 遠江守広継 | 又四郎(長瀞で討死) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『みちのく慈恩寺の歴史』p.168
- ^ 各系譜には見えないが永禄10年(1567年)「はとう物之覚書」(寺司文書)にも溝延城主勝広の名が見える。
- ^ 『寒河江市史 上巻』p.562
- ^ a b 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』
- ^ 『寒河江市史 上巻』p.561
参考資料
[編集]- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001
- 宇井啓 『みちのく慈恩寺の歴史』、2013