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左沢氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
左沢氏
家紋
一文字に三つ星いちもんじにみつぼし
本姓 大江氏親広流寒河江支流
家祖 左沢元時
種別 武家
出身地 出羽国
主な根拠地 出羽国村山郡左沢
凡例 / Category:日本の氏族

左沢氏(あてらざわし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は左沢楯山城(現在の山形県西村山郡大江町)。

概要

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左沢(あてらざわ)は最上川の流れに臨み、五百川(いもかわ)渓谷を経て置賜地方村山地方を結ぶ軍事上の要地であった。南方には鎌倉時代に築かれた富沢楯(大江匡朝築城)および対岸の伏熊楯(中山忠義築城:長崎中山氏の祖)があり、東には寒河江の平野が眺望できる楯山の上に左沢楯山城が築かれ左沢氏が入った。左沢氏初代元時大江時茂の次男であり、時茂が南北朝の争乱に備えて白岩・柴橋・寒河江溝延などに一族の子弟を配して守りを固めた際に、左沢に配置された。元時は応安元年/正平23年(1368年最上氏との漆川の戦いで敗れ一族60数名と共に自害してしまうが、子孫は代々左沢楯山城を守る。

至徳2年/元中2年(1385年伊達氏の侵攻により寒河江氏と同じく大江広元を祖とする長井氏が滅ぼされてしまうと、五百川渓谷によって伊達氏と接することになり左沢の重要性は増すことになる。鎌倉公方が関東・奥羽の支配を強め足利将軍と対立がすると、鎌倉府の動員令によって伊達攻めに参加した[1]。動員令が個別に出されたことから、国人の一人として寒河江氏から半ば独立していたことがうかがえる[2] 文明11年(1479年)、文明12年(1480年)伊達氏の侵攻を受けるが、寒河江氏・溝延氏と共に戦い、伊達側大将桑折播磨守を打ち取って撃退した(菖蒲沼の戦い)。永正元年(1504年)7代満政の時、寒河江氏最上氏にたびたび攻められるが出羽吉川氏白岩氏と共に防いだ。その後8代氏政の元服親を庄内地方に割拠した大宝寺氏(庄内武藤氏)がつとめたという。氏政が早世したためか、氏政の叔父にあたる政周が9代目を継ぐが、政周は後継の無かった出羽吉川氏を継いで永正11年(1514年)、伊達氏最上氏間の長谷堂での争いに参加し討死した。

その後も左沢楯山城には左沢を名乗る将が入るが、寒河江氏からの独立傾向を強めていくようで、天正2年(1574年天正最上の乱では義守の娘婿である伊達輝宗義守連合軍は白岩氏溝延氏・左沢氏とともに義光派の寒河江城を攻め落としている。

寒河江氏が最上氏に滅ぼされたのちは、最上氏に仕えた者が確認できる[3]

左沢楯山城跡は2009年に国の史跡に指定された。

系図

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『安中坊系譜』[4]

上総介
大江時茂
 
式部少輔
溝延茂信
 
出羽吉川氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弾正忠
左沢元時
 
式部少輔
氏政
 
伊予守
満広
 
伊予守
時高
 
伊予守
頼広
 
式部少輔
政勝
 
頼久[注釈 1]
(太郎二郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大蔵少輔
寒河江時氏
 
寒河江氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
式部少輔
満政
 
氏政[注釈 2]
(神九郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
兵部少輔
吉川政周
 

脚注

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注釈

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  1. ^ 銀山を支配したとみられ、子息二人と共に自害したとある。
  2. ^ 大宝寺氏説が烏帽子親を務めた。

出典

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  1. ^ 「戸沢家譜」『寒河江市史 上巻』p.686
  2. ^ 『寒河江市史 上巻』p.686
  3. ^ 『最上義光分限帳』pp.35,46「左沢金左衛門」「左沢孫左衛門」など
  4. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、p.99 - 101

参考文献

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  • 寒河江市市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994年
  • 寒河江市市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001年

関連項目

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