源順子
源 順子(みなもと の じゅんし/のぶこ、生没年不詳(貞観17年(875年)- 延長3年4月4日(925年5月4日)説も))は、平安時代前期の女性。史料によって傾子[1]や、頎子[2]とも記されるが、これは順子の草書体が誤ったものと考えられている。宇多天皇の皇女[3](異説あり)、藤原忠平の室で、藤原実頼の母。
概要
[編集]『大和物語』98段によれば「菅原の君」と称され、菅原道真女菅原衍子所生と推定される。
順子が忠平の室になったのは、実頼が生まれる昌泰3年(900年)以前と推定される。この婚姻からは、宇多天皇・菅原道真・藤原忠平の三者間の深い関係が想定される。なお、『古事談』には、忠平と順子の婚儀は、忠平が大弁参議のときに朱雀院西対で行われたとある。ただし、忠平が大弁と参議を兼ねたのは、参議還任の延喜8年(908年)以降となるほか、他の登場人物の経歴にも史実との齟齬があることから、『古事談』の逸話をそのまま史実とすることはできない[4]。
『紀貫之集』には、延長2年(924年)に忠平室の五十の算賀が行われたことが記される。また、忠平の日記『貞信公記』および『日本紀略』には、延長3年(925年)4月4日に忠平室が没したことが見える。これらを順子のこととし、その生没年を875年-925年とする説もある[5]。この生年に従うと、順子と宇多天皇(867-931)の年齢差は僅か9歳となることから、宇多天皇の皇女とする史料を疑い、「菅原の君」という呼称についても、光孝天皇の後宮(更衣か)で菅原是善の娘である菅原類子を順子の母と擬定し、のちに宇多天皇の養女になったとする見解がある[5]。類子を光孝天皇の後宮とする根拠は、当時無位であった類子が、光孝天皇践祚直後の元慶8年(884年)2月26日に従五位下に叙し、同日に光孝天皇女御であり宇多天皇の母である班子女王(父は桓武天皇皇子仲野親王)が従三位に叙している[6]からである。
しかし、『大和物語』98段の内容から上記の説を否定する見解もある。『大和物語』では、実頼の母の菅原の君、すなわち順子が没し、その服喪があけたころに、宇多法皇の仲介によって、忠平に禁色勅許が下されたことが記されている。順子の没年を延長3年とする説では、このエピソードも延長3〜4年のことと解釈するが、その時、忠平は既に正二位左大臣であり、禁色勅許(非参議の四位以下を対象とする)を受けるにはふさわしくない。このことから、延長2年に五十賀を行ない、延長3年に没した人物は、忠平のもう1人の室源昭子(源能有の娘)であり、順子の没年は、実頼生年の昌泰3年以降、忠平が参議に還任し禁色勅許の対象から外れる延喜8年までの間と想定するべきであるという見解である[7]。『後撰和歌集』収載の忠平の和歌の詞書に「七月ばかりに、左大臣のはは身まかりにける時」とあることも、延長3年4月没説を採らない傍証となる[4]。この見解に従えば、宇多天皇との年齢差は不明となり、宇多皇女という史料を疑う必要はなくなる。また、忠平の子女のうち、順子所生と判明するのは実頼のみであり、母の明らかな実頼の弟妹が昭子所生であることとも矛盾しない。
脚注
[編集]- ^ 『大鏡裏書』『一代要記』
- ^ 『皇代暦』
- ^ 『公卿補任』(承元元年藤原実頼尻付)『本朝皇胤紹運録』
- ^ a b 島田とよ子「忠平の禁色聴許の時期について」
- ^ a b 角田文衛「菅原の君」、『日本人名大辞典』等。
- ^ 『日本三代実録』
- ^ 迫徹朗『大和物語』人物考証、島田とよ子「忠平の禁色聴許の時期について」。島田は更に厳密に、昌泰3年または延喜2〜5年の間と推定している。