源勤
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 天長元年(824年) |
死没 | 元慶5年5月16日(881年6月16日) |
別名 | 西七条宰相 |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 | 父:嵯峨天皇、母:大原全子(大原真室の娘) |
兄弟 | 有智子内親王、潔姫、正良親王、正子内親王、信、貞姫、弘、常、全姫、寛、明、善姫、定、秀良親王、忠良親王、生、安、融、鎮、勤、啓、業良親王、基良親王、業子内親王、秀子内親王、俊子内親王、芳子内親王、繁子内親王、基子内親王、仁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王、淳王、清、澄、勝、賢、継、若姫、密姫、端姫、盈姫、更姫、神姫、容姫、吾姫、声姫、年姫、良姫 |
妻 | 不詳 |
子 | 温、激、浣、凝 |
源 勤(みなもと の つとむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十三源氏)。官位は従三位・参議。西七条宰相と号した。
経歴
[編集]仁明朝末の承和14年(847年)无位から従四位上に直叙され、山城守に任ぜられる。
仁寿4年(854年)右近衛中将に遷ると、天安2年(858年)右兵衛督と文徳朝半ば以降は武官を歴任する。後に左大臣にまで昇った2歳上の同母兄・源融が嘉祥3年(850年)29歳で従三位に昇進し公卿に列したのに比べて、勤の昇進は遅れ、貞観2年(860年)に13年ぶりに昇進し正四位下に叙せられる、貞観12年(870年)参議に任ぜられ47歳にしてようやく公卿となった。
議政官として右兵衛督・右衛門督と引き続き武官を務め、近江守・播磨権守と地方官も兼ねた。この間の貞観17年(875年)に兄・融に遅れること25年にして従三位に昇叙されている。
陽成朝の元慶5年(881年)5月16日薨去。享年58。最終官位は参議従三位行右衛門督兼播磨権守。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 承和14年(847年) 正月7日:従四位上(直叙)。正月12日:山城守[1]
- 嘉祥4年(851年) 正月11日:阿波守。4月1日:出居侍従
- 仁寿4年(854年) 9月23日:右近衛中将、阿波守如故
- 斉衡2年(855年) 正月15日:兼伊予守
- 斉衡4年(857年) 正月:右兵衛督[1]
- 天安2年(858年) 7月5日:宮内卿。9月14日:右兵衛督
- 天安3年(859年) 正月13日:兼相模守
- 貞観2年(860年) 11月16日:正四位下
- 貞観8年(866年) 正月13日:兼備中権守
- 貞観12年(870年) 正月13日:参議、右兵衛督如元
- 貞観14年(872年) 2月13日:兼近江守[1]。8月29日:兼右衛門督[1]
- 貞観17年(875年) 正月7日:従三位
- 元慶2年(878年) 正月11日:播磨権守
- 元慶5年(881年) 5月16日:薨去(参議従三位行右衛門督兼播磨権守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。