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源定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 定
時代 平安時代初期-前期
生誕 弘仁6年(815年[1]
死没 貞観5年1月3日863年1月25日
別名 四条大納言賀陽院大納言(陽院大納言とも)、楊梅大納言
官位 正三位大納言従二位
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 嵯峨源氏
父母 父:嵯峨天皇、母:百済王慶命百済王教俊の娘)
兄弟 嵯峨天皇#系譜参照
不詳
、宥、
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源 定(みなもと の さだむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿嵯峨天皇の子(嵯峨第六源氏)。淳和天皇猶子官位正三位大納言従二位四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)、楊梅大納言と称される[2]

経歴

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幼少より父・嵯峨天皇から寵愛を受け、退位後に叔父・淳和天皇猶子となる。淳和天皇からも実の皇子以上に寵愛を受け、天皇の寵姫・永原原姫をもって母として養育させたことから、世上「定には二父二母あり」と称された。天長4年(827年)淳和天皇は定を親王にすることを、奉書により嵯峨上皇に請うが、受け入れられなかった[3]

天長5年(828年源朝臣姓を賜与され、天長8年(831年元服する。淳和朝末の天長9年(832年)には従三位直叙されるとの特別な待遇がなされ、18歳で公卿に列した。翌天長10年(833年仁明天皇即位後に参議に任ぜられ、仁明朝では中務卿を長く務めた。承和7年(840年)養父の淳和上皇が崩御すると服喪のため参議を辞し、承和9年(842年)にも実父の嵯峨上皇崩御の服喪のため一時的に官職を辞している。承和14年(847年)再び参議に復任する。仁明朝末の嘉祥2年(849年中納言に昇進した。

嘉祥3年(850年文徳天皇践祚後まもなく正三位に昇叙される。仁寿2年(852年)15年近く務めた中務卿から右兵衛督に遷ると、翌仁寿3年(853年)左兵衛督と、文徳朝では武官を兼帯した。

天安2年(858年清和天皇の即位後まもなく右近衛大将に任ぜられ、翌貞観元年(859年)には大納言に至る。貞観5年(863年)正月3日薨去享年49。最終官位正三位大納言右大将。即日従二位追贈された。

人物

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「深宮の内に養長して未だ嘗て世俗の艱難を知らず」と評され、性格は温雅であった。音楽を愛好し、座右に鼓鐘を置いて、退庁の後は自ら弾じて楽しんだという。容姿は背が高く堂々としていた[3]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』貞観5年正月3日条の薨伝に記された没年齢49歳より逆算。
  2. ^ 源定 | コトバンク
  3. ^ a b 『日本三代実録』貞観5年正月3日条
  4. ^ a b c d e f 『公卿補任』

参考文献

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