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満洲国の国歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

満洲国国歌は、国務院佈告として正式に制定された二曲があり、その前にも国歌として製作された一曲がある。

大滿洲國國歌

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():大滿洲國國歌
和訳例:大満洲国国歌
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滿洲國國歌

国歌の対象
満洲国の旗 満洲国

作詞 鄭孝胥
作曲 山田耕筰
採用時期 1932年
採用終了 1932年
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(音楽のみ)
最初の満州国国歌《大滿洲國國歌》The first national anthem of Manchukuo(1932)《大滿洲建國歌》(大同元年版)

満洲国が最初の国歌の制作に着手した時期は不明であるが、1932年3月1日の満洲国建国宣言のころにはすでに準備が始まっていたと思われる[注釈 1]

1932年5月21日、満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(同年7月開催)への選手派遣を、同オリンピックの組織委員会に対し正式に申し込んだ[5]。組織委員会は「参加は国際オリンピック委員会 (以下、IOC) の承認による」として、国内オリンピック委員会を編成した上でIOCへ申請することを促すとともに、組織委員会に対して国旗と国歌を送付するよう、5月24日に連絡してきた[6]。これに対して満洲国体育協会が、IOC執行委員会及びオリンピック組織委員会宛に「国旗・国歌を組織委員会宛に送付した」と記した文書を6月12日に発信しており[7]、この時点で国歌が完成していたことがわかる[注釈 2]。作詞は満洲国の国務院総理であり、文筆家としても知られていた鄭孝胥[注釈 3]、作曲は日本作曲界の大御所であった山田耕筰

日本国内では満洲国国歌の完成を新聞が報じ[9][注釈 4]、雑誌『月刊楽譜』(昭和7年9月号)には付録として楽譜が掲載された[9]が、満洲国内では一切公表されず、結局正式には採用されなかった。不採用の理由は明らかにされていないが、旋律が難解で一般大衆が歌うのは困難、という批判が発表当時からあった(ただし、山田自身にはこの曲への思い入れがあり、後に《建国十周年慶祝曲》の主題として取り入れている)。加えて、満洲国がオリンピックに参加できず[11]、発表の場を失ったこと、歌詞の「善守國以仁、不善守以兵(善く国を守るは仁をもってし、善く守らざるは兵をもってす)」の部分に関東軍が不快感を示したこと、などが理由になったと考えられている[12]

1933年に国歌が制定されると、《大滿洲建國歌》と改題された[12]

歌詞

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  • 満語(中国語)

地闢兮天開
松之涯兮白之隈
我伸大義兮繩於祖武
我行博愛兮懷於九垓
善守國兮以仁
不善守兮以兵
天不愛道地不愛寶
貨惡其棄於地兮獻諸蒼昊
孰非橫目之民兮視此洪造

  • 大意

地は闢(ひら)け 天は開く
松(松花江)のほとり 白(白頭山)のくま
我は大義をのべて祖武による
我は博愛を行って九垓を懐(な)つく
善く国を守るは仁を以てし
普く守らざるは兵を以てす
天は道を愛(おし)まず 地は宝を愛まず
貨(たから)は地に棄てたるを憎しみ 之を蒼昊(そうこう)にささぐ
いずれか横目の民にしてこの洪造を視ざるものあらん[10]

滿洲國國歌(その一)

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():滿洲國國歌
和訳例:満洲国国歌
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滿洲國國歌

国歌の対象
満洲国の旗 満洲国

作詞 鄭孝胥
作曲 高津敏、園山民平、村岡楽童
採用時期 1933年
採用終了 1942年
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《大滿洲帝國國歌》とも呼ばれる[13]。前の国歌に続いて鄭孝胥が作詞した。作曲者については「満洲国文教部選」として公表されなかったが、高津敏・園山民平・村岡楽童の合作であることがわかっている[14]。1933年(大同2年)2月24日に制定された(国務院佈告第4号[15])。軽快な旋律が中国的な印象を与え、日本語の歌詞がないにもかかわらず、日本人に親しまれた。

1942年に新国歌が制定された際、この《滿洲國國歌》を《建國歌》と改題したため、《大滿洲建國歌》との混同が生じている(混同を避けるためか、山田耕筰は自身が作曲した《大滿洲建國歌》のことを「第一建国歌」とも呼んだ[16])。

歌詞

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  • 満語(中国語)

天地內有了新滿洲
新滿洲便是新天地
頂天立地無苦無憂
造成我國家
只有親愛並無怨仇
人民三千萬人民三千萬
縱加十倍也得自由
重仁義尚禮讓
使我身修
家已齊國已治
此外何求
近之則與世界同化
遠之則與天地同流

  • 大意

天地の中に新満洲あり
新満洲は即ち新天地である
天を戴き地に立ちて、苦しみも憂いも無い
ここに我が国家を立つ
ただ親愛の心があるのみで、怨みは少しも無い
人民は三千万あり 人民は三千万あり
もし十倍に増えても、自由を得るだろう
仁義を重んじ、礼儀を貴びて
我が身を修養しよう
家庭はすでに整い、国家もすでに治まった
他に何を求めることがあろうか
近くにあっては、世界と同化し
遠くにあっては、天地と同流しよう

滿洲國國歌(その二)

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():滿洲國國歌
和訳例:満洲国国歌
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滿洲國國歌

国歌の対象
満洲国の旗 満洲国

作詞 国歌制定委員会
作曲 山田耕筰信時潔
採用時期 1942年
採用終了 1945年
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音楽・音声外部リンク
満洲国国歌(中国語)

1933年制定の国歌に対し、国務院は

  • 歌詞が満語(中国語)のみで、ともに「国語」に採用されている日本語の詞がない。
  • 歌詞の中に、現状にそぐわない点が生じてきた(「人民三千萬」など)。
  • 音節が長く、歌が終わるのに時間がかかり過ぎる。

など「国歌として満ち足りない点もある[17]」として、建国十周年にあたって「新に典雅荘麗雄渾平易簡明なる国歌[18]」を制定すべく準備が進められた[注釈 5]

1941年10月22日に国歌制定委員会(会長・張景恵国務院総理)が創設され、その下に起草委員会(委員長・武藤富男)が設置された[20][注釈 6]。起草委員会にはさらに日文歌詞起草委員会・満文歌詞起草委員会・作曲委員会の3分科会が設けられた。まず日本語の歌詞草案が作られ、その後、日・満両国の作曲家に委嘱して献納された原案を作曲委員会が審議して作曲案を決定、日本側音楽顧問の山田耕筰と信時潔がこれを修正して曲ができあがった。さらに、「帝徳」と「万寿」の2語を日本語の歌詞と同じ位置で用いるように中国語の歌詞が付けられ、二つの言語で同時に斉唱できる新しい国歌が完成した[23]

1942年康徳9年)9月5日に制定され(国務院佈告第16号[24])、1933年制定の《滿洲國國歌》は《建國歌》と改題された[17]

歌詞

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  • 日本語

おほみひかり あめつちにみち
帝德は たかくたふとし
とよさかの 萬壽ことほぎ
あまつみわざ あふぎまつらむ[注釈 7]

  • 満語(中国語)

神光開宇宙 表裏山河壯皇猷
帝德之隆 巍巍蕩蕩莫與儔
永受天祜兮 萬壽無疆薄海謳
仰贊天業兮 輝煌日月侔

脚注

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注釈

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  1. ^ 満洲国建国宣言後の1932年3月8日に、執政となる愛新覚羅溥儀長春入りした際、『東京朝日新聞』は軍楽隊によって「新満洲国国歌」が演奏されたとする記事を掲載している[1]。この「新満洲国国歌」については児島襄も著書に取り上げている[2]が、実際に演奏されたのは同年2月に朝日新聞社が選定した軍国歌謡『満洲行進曲』だったという[3]。なお、溥儀が執政に就任した3月9日にも「新満洲国国歌」が演奏されたとする新聞記事が別途存在する[4]が、こちらの「新満洲国国歌」の詳細は不明。
  2. ^ 『東京朝日新聞』は6月3日付朝刊で、国歌の歌詞が完成したこと及び作曲を山田耕筰に依頼したことを報じている[8]
  3. ^ ロサンゼルスオリンピック参加申請時点での、満洲国体育協会会長・満洲国オリンピック委員会代表でもあった。
  4. ^ 『東京朝日新聞』は、7月19日付朝刊で国歌の完成を報じた[10]
  5. ^ 総務庁弘報処長で新国歌制定にも関与した武藤富男は、新国歌制定の理由について以下のように述べている[19]
    もともと満州国歌は建国早々、初代の総理鄭孝胥の作詞によるもので、儒教精神に溢れていたが、帝も王も現れず国民とその守るべき道義が核心をなしていた。(中略)
    この歌を奏じつつ感ずるのは、「これは帝政国家のものではなく、儒教的民主主義の歌である」ということであった。建国神廟は創建され、満州国は日本の「親邦」と呼ばれるようになったのに、国歌にはそれが現れていない。国家的行事が行なわれる場合も、外国へ使節が送られた時にも、学校で儀式が行われる際にも「天地内有了新満州」で、満州国は鄭孝胥の国家観により支配されているとも言いうる。
  6. ^ 武藤富男は「1942年4月に自ら新国歌制定の計画を武部六蔵総務長官に提案し、翌5月に国歌制定委員会が制定された」としている[19]が、これについて岩野裕一は新国歌制定の議論を報じる1941年7月の雑誌記事[21]の存在を指摘し、「(武藤の回想は)記憶違いあるいは勇み足であろう」としている[22]
  7. ^ 日本音楽文化協会の機関紙『音楽文化新聞』によれば、1942年7月時点の「草案」における日本語詞は、最終連が「あまつみわざ おこしまつらむ」となっている[18]

出典

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  1. ^ 「溥氏晴れの長春入り 駅頭にわく群衆の歓呼」「歓迎の民衆渦巻き 新国歌に踊り狂う その日の新国都長春」、東京朝日新聞1932年3月9日付朝刊、2頁。
  2. ^ 児島襄『満州帝国』 2巻、文藝春秋文春文庫〉、1983年、87-88頁。 
  3. ^ 岩野 1999, p. 95.
  4. ^ 「溥元首夫妻を擁して 新興国首途の万歳」、読売新聞1932年3月11日付夕刊(10日発行)、1頁。同記事は、日本電報通信社による配信記事に基づく。
  5. ^ 満洲建国十年史 1969, p. 892-893.
  6. ^ 満洲建国十年史 1969, p. 893.
  7. ^ 満洲建国十年史 1969, p. 893-894.
  8. ^ 「建国の精神を伝う満洲国の国歌成る 鄭総理会心の作」、東京朝日新聞1932年6月3日付朝刊、3頁。
  9. ^ a b 岩野 1999, p. 97.
  10. ^ a b 「満洲国国歌の作曲成る=山田耕筰氏 歌詞は鄭総理の作」、東京朝日新聞1932年7月19日付朝刊、10頁。同記事では、楽譜の写真も掲載されている。
  11. ^ 満洲建国十年史 1969, p. 894.
  12. ^ a b 岩野 1999, p. 100.
  13. ^ 中央観象台 編『時憲書』 康徳6年、国務院、1939年、1頁。NDLJP:1116856/4 
  14. ^ 岩野 1999, p. 101.
  15. ^ 満州国政府公報日訳 大同2年3月分” (PDF). 国立公文書館デジタルアーカイブ. 国立公文書館. p. 22. 2023年7月6日閲覧。
  16. ^ 岩野 1999, p. 254.
  17. ^ a b 音楽文化新聞b 2011, p. 38, 第23号(昭和17年8月20日付)、4頁「建国十周年慶祝の新国歌に日本語 従前の国歌は建国歌として保存」.
  18. ^ a b 音楽文化新聞a 2011, p. 282, 第20号(昭和17年7月10日付)、10頁「日本音楽文化協会々報 満洲帝国の新国歌作曲募集」.
  19. ^ a b 武藤 1988, p. 374-375.
  20. ^ 岩野 1999, p. 249.
  21. ^ 白根晃「音楽 : 音楽活動の概観」『観光東亜』第8巻第7号、日本国際観光局(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)満洲支部、1941年7月、87頁。 
  22. ^ 岩野 1999, p. 248.
  23. ^ 岩野 1999, p. 249-252.
  24. ^ 満洲国法令輯覧 第3巻

参考文献

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  • 『音楽文化新聞』 1 : 第1〜20号(1941年12月20日〜1942年7月10日)、戸ノ下達也編集・解題(復刻版)、金沢文圃閣〈戦時期文化史資料〉、2011年。ISBN 9784907789824NCID BB07752694 
  • 『音楽文化新聞』 2 : 第21〜38号(1942年7月20日〜1943年2月1日)、戸ノ下達也編集・解題(復刻版)、金沢文圃閣〈戦時期文化史資料〉、2011年。ISBN 9784907789824NCID BB07752694 
  • 満洲帝国政府 編『満洲建国十年史』瀧川政次郎解題 ; 衞藤瀋吉校註、原書房〈明治百年史叢書, 第91巻〉、1969年。 NCID BN02806917 
  • 武藤富男『私と満州国』文藝春秋、1988年。ISBN 4163425209NCID BN02702150 
  • 岩野裕一『王道楽土の交響楽 : 満洲 - 知られざる音楽史』音楽之友社、1999年。ISBN 4276211247NCID BA44260680 
  • 『満洲の歌』 姫路あかしあ会 1986年

外部リンク

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