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深山静夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
深山 静夫
名前
カタカナ ミヤマ シズオ[1]
ラテン文字 MIYAMA Shizuo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県
選手情報
ポジション DF
ユース
19xx-1917 日本の旗 広島県立広島中学校
19xx-1923 日本の旗 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 鯉城蹴球団
代表歴
1923 日本の旗 日本 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

深山 静夫(みやま しずお、生没年不詳)は広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表選手(全日本)。ディフェンダー慶應義塾体育会ソッカー部創設者[2][3][4][5]

来歴

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野津謙は県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)の1年先輩で[3]同校を1917年に卒業し慶應義塾大学へ進学。1919年1920年頃から、神戸一中出の範田竜平、明倫中学出の下出重喜、東京高等師範学校附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)出の斉藤久敏らとボールを蹴り始めた。

1921年、学内の有志を集めて「ブルー・サッカー倶楽部」を創部。同年「慶應アソシエーション・フットボール倶楽部」と改称(1927年慶應義塾体育会ソッカー部に名称変更)[6][2][3][4][5]。『慶応義塾体育会ソッカー部50年』の中に倶楽部創立にあたり、広島中学の先輩・野津謙の応援があったという記述が見られ[7]、また倶楽部創立発起人[2][8]のうち、深山が最年長者であることから[9]、倶楽部創立の中心人物と考えられる。

1921年11月に東京で行なわれたア式蹴球全國優勝競技會 (第1回天皇杯全日本サッカー選手権大会)関東予選に参加したが、2回戦で全国優勝した東京蹴球団に敗れた。また野津と共に同年9月の大日本蹴球協会(日本サッカー協会)の創立にも参画した[3]。1923年、慶應義塾大学経済学部を卒業し大阪に勤務。同年大阪であった第6回極東選手権日本代表の関西倶楽部に補強されディフェンダーとして国際Aマッチ2試合(フィリピン中華民国戦)にフル出場[1]

その後、広島に帰郷。鯉城蹴球団(鯉城クラブ)の創設に参加し1924年1925年には同チームの中心的プレイヤーとして清水直右衛門香川幸田部辰らと1924年および1925年の明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回天皇杯および第5回天皇杯)を2連覇した[3]。また、1924年第7回全国中等学校選手権(現全国高等学校サッカー選手権大会)と1928年第10回大会の審判員等も務めた。

1928年進徳高女教員となると大日本蹴球協会(日本サッカー協会)中国支部の代表者として運営に専念。自宅を事務局にして長年その運営に当たった。1941年愛知県に転出するまでサッカーに関わったという[3]。以降の経歴は不明である。

※戦前の国際試合を日本サッカー協会は、Aマッチと認定をしていなかったが2007年6月、第6回以降の極東選手権大会を含む20試合をAマッチとして認定した。このため深山らの出場した第6回極東選手権対・フィリピン戦(1923年5月23日)が、日本代表の国際Aマッチ第一戦となった。

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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1923年 第6回極東選手権大会

試合数

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  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1923)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1923 2 0 0 0 2 0
通算 2 0 0 0 2 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1923年05月23日 日本の旗大阪府 大阪市立運動場  フィリピン ●1-2 西田満寿次郎 極東選手権
2. 1923年05月24日 日本の旗大阪府 大阪市立運動場  中華民国 ●1-5 極東選手権

脚注

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  1. ^ a b 第6回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月30日閲覧。
  2. ^ a b c 『風呼んで翔ける荒鷲よ ー慶応義塾体育会ソッカー部50年ー』 三田ソッカー倶楽部、1978年、19、21-25、161、283頁、歴史館 - 慶應義塾体育会ソッカー部歴史館2≪主将、浜田諭吉氏 - 慶應義塾体育会ソッカー部
  3. ^ a b c d e f 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、25、28、38、39頁
  4. ^ a b 賀川サッカーライブラリー
  5. ^ a b 賀川サッカーライブラリー
  6. ^ 慶應義塾とサッカー:慶應義塾
  7. ^ 『風呼んで翔ける荒鷲よ ー慶応義塾体育会ソッカー部50年ー』 19頁
  8. ^ 慶應義塾体育会ソッカー部創立発起人、深山静夫(広島一中)、範田竜平(神戸一中)、下出重喜(明倫中学)、千野正人(神戸一中)、斉藤久敏(附属中学)(慶応義塾体育会ソッカー部50年、23頁)。
  9. ^ 創立発起人5名のうち、深山は1923年に慶應義塾大学を卒業するが、他の4名は翌1924年にも大学に在籍している(慶応義塾体育会ソッカー部50年、23頁)。

外部リンク

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