深山静夫
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名前 | ||||||
カタカナ | ミヤマ シズオ[1] | |||||
ラテン文字 | MIYAMA Shizuo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
出身地 | 広島県 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
19xx-1917 | 広島県立広島中学校 | |||||
19xx-1923 | 慶應義塾大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
鯉城蹴球団 | ||||||
代表歴 | ||||||
1923 | 日本 | 2 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
深山 静夫(みやま しずお、生没年不詳)は広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表選手(全日本)。ディフェンダー。慶應義塾体育会ソッカー部創設者[2][3][4][5]。
来歴
[編集]野津謙は県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)の1年先輩で[3]同校を1917年に卒業し慶應義塾大学へ進学。1919年か1920年頃から、神戸一中出の範田竜平、明倫中学出の下出重喜、東京高等師範学校附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)出の斉藤久敏らとボールを蹴り始めた。
1921年、学内の有志を集めて「ブルー・サッカー倶楽部」を創部。同年「慶應アソシエーション・フットボール倶楽部」と改称(1927年慶應義塾体育会ソッカー部に名称変更)[6][2][3][4][5]。『慶応義塾体育会ソッカー部50年』の中に倶楽部創立にあたり、広島中学の先輩・野津謙の応援があったという記述が見られ[7]、また倶楽部創立発起人[2][8]のうち、深山が最年長者であることから[9]、倶楽部創立の中心人物と考えられる。
1921年11月に東京で行なわれたア式蹴球全國優勝競技會 (第1回天皇杯全日本サッカー選手権大会)関東予選に参加したが、2回戦で全国優勝した東京蹴球団に敗れた。また野津と共に同年9月の大日本蹴球協会(日本サッカー協会)の創立にも参画した[3]。1923年、慶應義塾大学経済学部を卒業し大阪に勤務。同年大阪であった第6回極東選手権日本代表の関西倶楽部に補強されディフェンダーとして国際Aマッチ2試合(フィリピン、中華民国戦)にフル出場[1]。
その後、広島に帰郷。鯉城蹴球団(鯉城クラブ)の創設に参加し1924年、1925年には同チームの中心的プレイヤーとして清水直右衛門や香川幸、田部辰らと1924年および1925年の明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回天皇杯および第5回天皇杯)を2連覇した[3]。また、1924年の第7回全国中等学校選手権(現全国高等学校サッカー選手権大会)と1928年の第10回大会の審判員等も務めた。
1928年、進徳高女教員となると大日本蹴球協会(日本サッカー協会)中国支部の代表者として運営に専念。自宅を事務局にして長年その運営に当たった。1941年愛知県に転出するまでサッカーに関わったという[3]。以降の経歴は不明である。
※戦前の国際試合を日本サッカー協会は、Aマッチと認定をしていなかったが2007年6月、第6回以降の極東選手権大会を含む20試合をAマッチとして認定した。このため深山らの出場した第6回極東選手権対・フィリピン戦(1923年5月23日)が、日本代表の国際Aマッチ第一戦となった。
所属クラブ
[編集]- 広島県立広島中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)
- 慶應義塾大学
- 鯉城蹴球団
代表歴
[編集]出場大会
[編集]1923年 第6回極東選手権大会
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 2試合 0得点(1923)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1923 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1923年05月23日 | 大阪府 | 大阪市立運動場 | フィリピン | ●1-2 | 西田満寿次郎 | 極東選手権 |
2. | 1923年05月24日 | 大阪府 | 大阪市立運動場 | 中華民国 | ●1-5 | 極東選手権 |
脚注
[編集]- ^ a b “第6回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月30日閲覧。
- ^ a b c 『風呼んで翔ける荒鷲よ ー慶応義塾体育会ソッカー部50年ー』 三田ソッカー倶楽部、1978年、19、21-25、161、283頁、歴史館 - 慶應義塾体育会ソッカー部、歴史館2≪主将、浜田諭吉氏 - 慶應義塾体育会ソッカー部
- ^ a b c d e f 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、25、28、38、39頁
- ^ a b 賀川サッカーライブラリー
- ^ a b 賀川サッカーライブラリー
- ^ 慶應義塾とサッカー:慶應義塾
- ^ 『風呼んで翔ける荒鷲よ ー慶応義塾体育会ソッカー部50年ー』 19頁
- ^ 慶應義塾体育会ソッカー部創立発起人、深山静夫(広島一中)、範田竜平(神戸一中)、下出重喜(明倫中学)、千野正人(神戸一中)、斉藤久敏(附属中学)(慶応義塾体育会ソッカー部50年、23頁)。
- ^ 創立発起人5名のうち、深山は1923年に慶應義塾大学を卒業するが、他の4名は翌1924年にも大学に在籍している(慶応義塾体育会ソッカー部50年、23頁)。
外部リンク
[編集]- 深山静夫 - National-Football-Teams.com
- 日本サッカー・ブック・ガイド