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河内十七箇所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市守口市大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。

概要

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文禄3年(1594年)の文禄堤完成までは淀川には現在の寝屋川市大間付近から南流する支流が存在した。この支流は宝永元年(1704年)に付け替えられるまで北流していた大和川大東市住道付近で合流して西に流れを変え、大阪市天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。(現在の寝屋川古川はこの名残である)

茨田郡はこの淀川南流によって東西に二分されていたが、この西半分が河内十七箇所に当たる。仁徳天皇の時代に築かれた茨田堤はこの茨田郡西部を水害から守る囲堤防、すなわち輪中であった。

寝屋川9箇庄(旧九個荘町)、大庭、大窪、門真の12箇庄を上郷と呼び、下仁和寺、小高瀬、寺方、橋波、稗島の5箇庄を下郷、あるいは五ケと呼んだ。五ケの呼称は明治頃まで使われたようである。他に下郷に門真庄を加えて下六ケとも呼ばれた。

淀川の水運も含めて京・大坂間の交通路であったこと、摂津国榎並庄大阪市城東区野江/成育~旭区清水)と陸路で接続していたこと、河内国内では他地域と河川で区切られていたことから、地理的、軍事的に区別された。時代ごとの京・大坂間の交通路の変遷によって盛衰がある。

歴史

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十七箇所を構成する荘園

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  • 池田庄 - 寝屋川市池田本町周辺
  • 点野庄 - 寝屋川市点野周辺
  • 葛原庄 - 寝屋川市葛原周辺
  • 上仁和寺庄 - 寝屋川市仁和寺町周辺
  • 対馬江庄 - 寝屋川市対馬江東町、対馬江西町
  • 高柳庄 - 寝屋川市高柳周辺
  • 大利庄 - 寝屋川市大利町周辺(京阪電鉄寝屋川市駅西側)
  • 神田庄 - 寝屋川市上神田、中神田、下神田
  • 黒原庄 - 寝屋川市黒原周辺
  • 門真庄 - 門真市北部、桑才
  • 稗島庄 - 門真市三ツ島
  • 大庭庄 - 守口市佐太、大日、大庭町、八雲
  • 大窪庄 - 守口市大久保町、東町、藤田町、金田町、梶町
  • 下仁和寺庄 - 守口市中部(京阪電鉄守口市駅から土居駅周辺)
  • 小高瀬庄 - 守口市高瀬町、馬場町、大枝、松下町、大阪市鶴見区諸口横堤今津
    • 守口市側と鶴見区側とは飛び地である。
  • 寺方庄 - 守口市寺方周辺、大阪市鶴見区焼野
  • 橋波庄 - 守口市東郷通、菊水通、大宮通、西郷通

脚注

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  1. ^ 作品自体は後世の創作であり時代考証もなされておらず、道真の滞在地が河内国佐太から摂津国安井(堺市堺区安井)に変化している。海港としての堺の勃興は南北朝時代以降であり、現在の藤井寺市にある河内国道明寺への道としても遠回りである。