池田長溥
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和3年5月28日(1803年7月16日) |
死没 | 嘉永6年11月10日(1853年12月10日) |
改名 | 虎彦(幼名)、長溥 |
別名 | 修理(通称) |
戒名 | 玄隆院義嶽徹翁大禅門 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下筑後守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本、大目付 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
氏族 | 分部氏、池田氏(長吉流) |
父母 | 分部光、池田長喬 |
兄弟 |
分部光弘、分部光邦、唯之助、溝口勝匡、長溥、小出英筠継室、田沼意留継室、 安部信操正室、森川俊知継室、 長岡義之室、高力某養女、久留某養女 |
妻 | 林述斎養女 |
子 | 林大学頭健室、分部光貞室、長発 |
池田 長溥(いけだ ながひろ)は、江戸時代後期の旗本。井原池田氏(長吉流)9代当主。官位は従五位下・筑後守。
略歴
[編集]享和3年(1803年)、近江国大溝藩8代藩主・分部光実の五男として誕生。光実が池田長信の来孫にあたるという縁から、文化5年(1808年)12月、旗本・池田長喬の末期養子となり、禄高900石を相続し小普請組に入る。書院番、進物番、西の丸小十人頭となり、布衣を着することを許される。
天保6年(1835年)3月、西の丸目付。天保7年(1836年)本丸目付。天保12年(1841年)普請奉行。天保14年(1843年)作事奉行。弘化2年(1845年)300石加増。弘化3年(1846年)には大目付に就任した。
嘉永6年(1853年)11月10日、死去。享年51。跡を養子・長発が継いだ。
系譜
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