池田定常
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和4年10月3日(1767年11月23日) |
死没 | 天保4年7月13日(1833年8月27日) |
改名 | 鐵之助、恒次郎、定常 |
別名 | 冠山(号) |
戒名 | 停雲院冠山 |
墓所 |
東京都墨田区の弘福寺 鳥取県鳥取市国府町奥谷の鳥取藩主池田家墓所 |
官位 | 従五位下・縫殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 因幡若桜藩主 |
氏族 | 池田氏(政親流)、池田氏(清定流) |
父母 |
池田政勝、朝倉氏 池田定得 |
兄弟 | 定常、政富ら |
妻 | 柿沼氏、お妙の方 |
子 |
徽子、煕子、定興、奉姫、恵子、茄子、 恭之助、力三郎、千之丞、常久、昌子、 鎮子、定保、定足、房子、奉子、松平露ら |
池田 定常(いけだ さだつね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名[1]。因幡国若桜藩5代藩主[1]。官位は従五位下縫殿頭。号は冠山[1]。松平冠山と呼ばれることもある。
生涯
[編集]1000石の旗本・池田政勝の次男[1]として誕生した。幼名は鐵之助[2]、恒次郎[3]。安永(1773年)、先代の若桜藩主・池田定得が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった。
定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた。享和2年(1802年)11月、家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる。
定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている。寛政8年から翌9年に記した巡見日記が『駿河めぐり』として中川芳雄により翻刻されている[4]。文政6年には、自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ『児子再生前世話』(勝五郎再生前生話)を記した[5]。
天保4年(1833年)7月13日に死去した。享年67。法号は停雲院冠山。墓所は東京都墨田区の弘福寺、鳥取県鳥取市国府町奥谷の鳥取藩主池田家墓所。
人物
[編集]父の政勝は定常が幼くして若桜藩の藩主になったとき、教育係の神戸与五郎と高橋平五左衛門の2人に、「大名になったからと言って甘やかすな。定常を大名と思わず、旗本と思って厳しく教育せよ。贅沢などはもってのほかだ」と言い聞かせている。定常は父の言葉をよく守り、死ぬまで大名だからといって贅沢な暮らしはしなかった。
系譜
[編集]- 父:池田政勝(1709年 - 1782年)
- 母:朝倉氏
- 養父:池田定得(1754年 - 1773年)
- 正室:なし
- 室:柿沼氏
- 側室:お妙の方
- 十六女:松平露(1817年 - 1822年) - 露姫、浄観院、玉露童女
- 生母不明の子女
脚注
[編集]- ^ a b c d “池田定常(いけだ さだつね)とは”. コトバンク. 2018年1月2日閲覧。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 84頁。
- ^ 森銑三ほか編『随筆百花苑 第七巻』中央公論社、1980年、459p頁。
- ^ NCID BA65707598
- ^ “勝五郎再生前生話 / 冠山 [編]”. 早稲田大学図書館. 2018年1月2日閲覧。