コンテンツにスキップ

池宗墨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池宗墨
『冀東政権の正体』(1937年)
プロフィール
出生: 1890年光緒16年)
死去: 1951年5月20日
中華人民共和国の旗 中国北京市
出身地: 清の旗 浙江省温州府平陽県
職業: 政治家・実業家・教育者
各種表記
繁体字 池宗墨
簡体字 池宗墨
拼音 Chí Zōngmò
ラテン字 Ch'ih Tzung-mo
和名表記: ち そうぼく
発音転記: チー ゾンモー
テンプレートを表示

池 宗墨(ち そうぼく、1890年 - 1951年5月20日)は中華民国の政治家・実業家・教育者。冀東防共自治政府の秘書長で、後に政務長官代理となった。別号は尚同[1][2]

事績

[編集]

初期の活動

[編集]

日本留学し、東京高等師範学校を卒業する[1]。また、明治大学からは名誉学位を贈与された[3][4][注 1]。帰国後は、浙江省首席督学官、北京高等師範学校教授(教員)[1]、尚志大学教授、北京中学校長、厦門師範学校校長、常州利民紗厰経理[1]などを歴任した。1925年民国14年)、中国銀行鄭家屯分行行長に任ぜられる。さらに通成紡績公司経理も担当した[3][5]

冀東防共自治政府での活動

[編集]

1935年(民国24年)、池宗墨は、河北省の薊密区行政督察専員公署秘書長に任ぜられた。11月24日、冀東防共自治委員会が成立した際、委員長・殷汝耕以外の委員8人の1人に列せられている[注 2]。翌月に冀東防共自治政府が成立すると、政務長官・殷汝耕と同郷の誼により、池は秘書長[注 3]兼外交処長に就任した[3][5]1936年(民国25年)4月、満洲国との修好使節として新京に向かっている[6]。同年秋、外交処長の兼務を解かれ(後任の外交処長は王潤貞)、秘書長専任となった[7]

1937年(民国26年)7月29日、通州事件が勃発、殷汝耕も反乱軍に一時捕らえられる事態が起きた。殷は混乱の中で辛うじて脱出、北平に逃げ込んだが、反乱軍との関係を日本軍に疑われて拘束されてしまう。そのため同月31日、公務で不在だったため難を逃れていた池宗墨が、政務長官代理に任命された[8][注 4]。池は事件の事後処理にあたり、また、政府所在地を通県から唐山に移した[9]

同年12月24日、池宗墨は在北京日本大使館を訪問し、事件解決策をまとめた文書を参事官森島守人に手交した。文書の内容は、(1) 正式謝罪、(2) 弔慰金及び賠償金(120万円)の支払い、(3) 自治政府全負担による慰霊塔建設の三条件となっており、森島もこれを受諾した[10][注 5]

1938年(民国27年)1月30日、冀東防共自治政府は王克敏が率いる中華民国臨時政府に併合され、領域は河北省に編入される。これに伴い、議政委員会委員[注 6]に池宗墨が就任するものと、当初は目されていた[11]。ところが2月5日に池が実際に任命されたのは、特任待遇の行政委員会参議であった[12][13]。行政委員会参議は「行政委員会が行政上の実益を得るために任用」される地位に過ぎず[注 7]、議政委員会委員のように臨時政府の政策決定に参与できる地位では無かった。池はこの先においても、実質的な権限を持つ政府官職の地位には就かないまま、日本敗戦を迎えている。

実業家としての活動

[編集]

同年4月、池宗墨は北支産金株式会社の子会社である華北採金股份有限公司で董事長になる[14][15]。また同年8月には、華北地域における抗日思想根絶や訓育強化を目的として北京で創立された、日中合弁の印刷会社・新民印書館の初代董事長となっている[16]

前者の華北採金股份有限公司においては、1942年(民国31年)時点でも池宗墨が董事長を務めていることを確認できる[17][注 8]。一方、後者の新民印書館においては、王克敏らの意向で中華民国臨時政府が同社の全持株を購入したことにより、翌1939年(民国27年)7月、池は董事長を退任した(後任は曹汝霖[18][19][20]

この他、汪兆銘政権下では1945年(民国34年)5月に華北労工協会理事長を務めている[21]

最期

[編集]

日本敗北後の1945年(民国34年)12月5日、池宗墨は狂人を装うも虚しく潜伏先の北平で逮捕されて河北高等法院に送致[22]漢奸の罪で極刑の判決を下された[23]。しかし実際には、国民政府統治下において池の死刑執行は無かった。

中華人民共和国成立後の1951年5月20日、北京市人民政府から改めて反革命罪などで死刑判決を言い渡され、直ちに執行された。享年62[21][注 9]。 

人物像

[編集]

池宗墨は孔孟思想と王道政治論の信奉者であり、徹底した中国国民党嫌いであったとされる。三民主義孫文(孫中山)を非難・罵倒し、また、清末の政治家曽国藩を尊敬していた、とされる。殷汝耕同様、日本語に巧みであった[24]

池宗墨は徒に政治的策動を行ったり、宣伝的言辞を弄したりする人物として日本陸軍中央からも警戒されており、昭和12(1937)年5月には陸軍次官の梅津美治郎支那駐屯軍(天津軍)参謀長・橋本群にその旨を打電した模様である[25]永田美那子(元・満洲国婦女会常任幹事、関東軍第二課嘱託)に至っては池を「危険人物」とみなし、その情報を北京の日本軍司令部に流したが、逆に永田が軍側から叱責されたという[26]

殷汝耕とは同郷の誼があったが、冀東防共自治政府成立後になると両者の関係は悪化していた。上述のように、通州事件直後に殷が現地日本軍から事件張本人と猜疑されたことがあったが、今井武夫(当時、大使館付武官補佐官)によれば、池宗墨が政務長官の地位を得ようと野心を抱き、策謀をめぐらしたことに原因があったとされる[27]

注釈

[編集]
  1. ^ 尾崎監修(1940)、201頁や満蒙資料協会編(1940)、1844頁、橋川編(1940)、123頁は「明治大学卒業」としているが、誤りと見られる。明治大学編(1937)にも、池宗墨と同定できる人物名が見当たらない。ここでは高木(1937)と神田著, 東洋事情研究会編(1937)に従う。
  2. ^ 当初は「池尚同」という人名で呼ばれていたが(「冀東防共自治委員会成立」『外交時報』76巻6号通号745号、昭和10年(1935年)12月15日、外交時報社、194頁)、冀東防共自治委員会成立宣言では「池宗墨」の表記となっている(高木(1937)、20-24頁)。池以外の残る7人の委員は、王厦材張慶余張硯田李海天趙雷李允聲殷体新。自治委員会には自治政府の「秘書長」のような地位は無く、民政・財政・建設・教育・外交・秘書・保安の7処のみが置かれた。
  3. ^ 秘書長は「政務長官の政務処理を補佐する」(「冀東防共自治政府組織大綱」第6条)ものとし、各処・庁を統括する地位である。
  4. ^ 12月ごろになると「代理」との表記が報道から消滅する例もあったが、正式に就任したかどうかは不明である。
  5. ^ 弔慰金及び賠償金の内40万円は、同日中直ちに日本側へ支払われた。
  6. ^ 議政委員会委員は、臨時政府の施政方針や法律案、予算案・決算案、特任官の任免、宣戦講和及び条約締結等に関する議政委員会の議決に参与することができる(議政委員会組織大綱第3条)。
  7. ^ 行政委員会組織大綱第6条。同様の地位として「顧問」と「諮議」がある。
  8. ^ 冀東防共自治政府で外交処長を務めた王潤貞も、同公司創立以来、董事を務めた(池同様、1942年時点では在任が確認できる)。
  9. ^ 同日に処刑された著名人物としては、張海鵬張仁蠡富双英張仲直などがいる。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 「留日学生同学録」浙江档案網
  2. ^ 「冀東防共自治委員会成立」『外交時報』外交時報社76巻6号通号745号、昭和10年(1935年)12月15日、外交時報社、194頁。
  3. ^ a b c 高木(1937)、136頁。
  4. ^ 「池秘書長の略歴」神田著, 東洋事情研究会編(1937)。
  5. ^ a b 徐主編(2007)、404頁。
  6. ^ 『外交時報』78巻3号通号754号、1936年5月1日号、外交時報社、192-193頁。
  7. ^ 高木(1937)、138頁。
  8. ^ 「冀東長官、更迭す 池宗墨氏、代理に就任」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)8月1日夕刊、1面。
  9. ^ 「池宗墨氏 唐山へ 要人を同伴」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)8月10日夕刊、1面。
  10. ^ 赤松(1938)、247-248頁。森島(1950)、129頁。
  11. ^ 「池氏議政委員に」『東京朝日新聞』1938年2月5日朝刊、2面。
  12. ^ 臨時政府令、令字第94号、民国27年2月5日(『政府公報』第3号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年2月7日、3頁)。
  13. ^ 「池氏参議任命発令」『東京朝日新聞』1938年2月7日夕刊、1面
  14. ^ 「北支産金社創立」『東京朝日新聞』1938年4月9日朝刊、4面。
  15. ^ 『支那関係主要会社一覧表 昭和十四年十一月一日現在』興亜院政務部、1939年。
  16. ^ 下中弥三郎刊行会編(1965)、180-182頁。
  17. ^ 『北支会社年鑑 昭和十七年版』大連商工会議所、130頁。
  18. ^ 『北支・蒙疆年鑑 昭和十六年版』北支那経済通信社、1940年、381頁。
  19. ^ 下中弥三郎刊行会編(1965)、183頁。
  20. ^ 曹著, 曹汝霖回想録刊行会編訳(1967)、256-258頁。
  21. ^ a b 人民日報』1951年5月23日、第5版。
  22. ^ 益井(1948)、19頁及び134頁。
  23. ^ 何(2006)。
  24. ^ 高木(1937)、135-137頁。
  25. ^ 「池宗墨の取扱に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004330700、密大日記 第6冊 昭和12年(防衛省防衛研究所)
  26. ^ 永田(1968)、190頁。
  27. ^ 今井(1964)、53-54頁。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。 
  • 赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』日本国際協会、1938年。 
  • 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀 : 一外交官の回想』岩波文庫、1950年。 
  • 何立波「『華北自治運動』中的冀東偽政権」『二十一世紀』網絡版総第49期、2006年4月
  • 永田美那子『女傑一代』毎日新聞社、1968年。 
  • 今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964年。 
  • 下中弥三郎刊行会編『下中弥三郎事典』平凡社、1965年。 
  • 曹汝霖著, 曹汝霖回想録刊行会編訳『一生之回憶』鹿島研究所出版会、1967年。 
  • 益井康一『裁かれる汪政権 中国漢奸裁判秘録』植村書店、1948年。 
  • 神田隆介著, 東洋事情研究会編『冀東綜覧 北支経済資料 改訂増補』東洋事情研究会、1937年。 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第3版』満蒙資料協会、1940年。 
  • 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。 
  • 明治大学編『明治大学一覧 付・卒業生年度別 昭和十二年十一月』明治大学、1937年。 
  冀東防共自治政府
先代
殷汝耕
政務長官(代理)
1937年7月 - 1938年1月
次代
(廃止)