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江戸川上水町村組合

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江戸川上水町村組合の消火栓
江戸川上水町村組合の消火栓

江戸川上水町村組合(えどがわじょうすいちょうそんくみあい)とは、南葛飾郡南足立郡北豊島郡の12町(現在の荒川区の全域および墨田区江東区江戸川区足立区の一部)への水道供給を目的とした町村組合である。

概要

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組合加入の12町の地下水は粗悪な水質であるところが多く、一部良好な飲料水を得られたところもあったが、人口の増加によって井戸が増えると地下水の欠乏し問題となっていた[1]。特に砂町、大島町、亀戸町の水質は酷く[注釈 1]渇水時には生活用水はおろか飲料水さえ容易に得られない有様であり[1]、あまりの水質の悪さに深井戸を掘って良水を得ようとしたものもいたが、いずれも良い結果は得られなかった[2]。この地域には「水屋」や「水売り」と呼ばれる飲料水販売業者が江戸川の水や京橋区土州橋(現在の首都高速箱崎ジャンクション付近)から排水されていた東京市水道の余水を汲んで同地に輸送し、飲料水を販売していた[2][3][4][注釈 2]。その後1906年明治39年)から1911年(明治44年)にかけて東京市が本所区柳島元町など5か所に船舶給水所を設置すると、前述の「水屋」はそこから水を汲んで販売するようになった。水道使用量の調査を行った東京市は前述の船舶給水栓の使用量が非常に多量となっていることに気づき、調査した結果その使用量の多くが郡部へ水道水を販売することが目的であることを確認した。東京市はこれを黙認することはできないとして1914年大正3年)に給水所を閉鎖した。水屋は江戸川の水を汲んで間に合わせたが、東京市水道に比べて水質は非常に劣っており町民の飲料水状況は悪化する一方であった[注釈 3]。更にその年の8月29日に起こった暴雨によって大洪水が発生すると付近一帯の井戸は濁水に侵され、飲料水はおろか雑用水にも使用できない状態となった。そのため3町長は東京市長に交渉し9月1日より東京市より上水の供給を受け飲料水を町民に販売した。当初は期限を設けての給水であったが3町の働きかけにより給水所を設置[注釈 4]して江戸川上水の通水まで上水の供給が継続されることとなった。飲料水に関しては東京市からの上水供給によってある程度の解決がなされたが、工業用水に関しては依然不足したままで工場の進出の障害になっていた。また消防用水の不足も深刻であり、井戸水や川の水[注釈 5]が手に入らなければ消火に側溝汚水を用いることもあった[注釈 6]。この3町は12町の中でも極めて酷い状況であったが、他の町においても人口の増加によって水不足は問題となっており、上水道の敷設は同地域において喫緊の課題となっていた[2]

同地においても官民ともに水道敷設計画が画策されており、民間においては東京市周囲全域に給水を目的とし方面ごとに会社を設立した発起人によって亀戸町、大島町、砂町(当時は砂村)、吾嬬町、寺島町(当時は寺島村)、隅田町(当時は隅田村)の6町村に水道敷設認可の申請が行われた[1][注釈 7]。また、自治体においても亀戸町長の鶴岡英文らによって小松川町に井戸を掘って関係町村に給水する計画が立てられたが、いずれも実現には至らなかった[2]

1919年(大正8年)、当時の東京府知事であった井上友一は東京市隣接町村の水道建設に関して工学博士中島鋭治に調査を依頼した。中島は給水区域の見地により隣接町村を4区域に分割した。江戸川上水町村組合の給水区域では財源面の問題はあったものの、東京市隣接町村の中でも極めて上水道の必要性が大きかったため速やかに組合が結成され、同年12月26日東京府江戸川上水町村組合が設立された[2]1922年(大正11年)4月9日に工事が起工され、1926年(大正15年)8月1日には大部分の工事が竣工したことで給水を開始した。同年10月10日に竣工式が挙行されている[1]

給水範囲の水質の悪さから他に類例のないほどに加入者が激増したため給水開始前の1926年(大正15年)7月には第1期拡張工事を起工し、1928年昭和3年)3月に竣工している[5]1930年(昭和5年)には尾久町、日暮里町の一部の給水量不足に対する応急処置として荒玉水道町村組合と上水需給契約を締結して分水を受けている。1931年度(昭和6年度)からは第2期拡張工事が行われ、東京市に移管後は同市が継承した[1]

1932年(昭和7年)10月1日に南葛飾郡、南足立郡、北豊島郡が東京市に統合されたことで同年9月30日限りで江戸川上水町村組合は解散、事業一式を市に引き継いで東京市水道の一部となった[1][5]。東京市への引継ぎ時の給水戸数は11万8718戸、給水人口は46万3065人であった[1]

給水区域

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施設

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南葛飾郡金町村江戸川本流を水源とし、河畔の金町大字柴又字上屋敷428番地に金町浄水場を設置した[1][2][6]。現在も金町浄水場は東京都水道局の浄水場として現役であるが、当時設けられた第1取水塔は1964年(昭和39年)の第3取水塔の建設に伴い撤去されている[7][8]

組合役場は設立当初は小松川町大字西小松川にある南葛飾郡役所内に設けられたが、1924年(大正13年)3月より亀戸町に新築した組合役場を使用した[2][9]。後に東京都水道局の亀戸営業所となっている[5][注釈 8]。また、寺島、金町、三河島、小松川に出張所を設けていた[2][6]

その他

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同組合の給水区域に隣接していた小岩町では単独での上水道敷設の計画がなされ、1932年(昭和7年)4月5日に小岩町営水道の敷設申請がなされたが、東京市への合併の直前であったことから認可が下りなかった[10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 明治34年~35年頃に警視庁が砂町の井戸水を検査した際には飲用に適した井戸水は1000か所のうち3か所、明治43年の水害後に警視庁が大島町の井戸水の水質検査を行った際は日本製粉の工場にある井戸以外は町内に1つも飲用に適する井戸はないという結果であった。
  2. ^ なおこの水屋も人口が希薄な場所にわざわざ出向いて販売することは少なかったため、全域に水屋による飲料水供給があったわけではない。
  3. ^ 人件費の高騰などからかつてのように江戸川の水を汲んで供給していたのでは採算が取れないとして水屋は東京市に船舶給水所の給水再開を求めたが認められなかった。
  4. ^ 砂村(後の砂町)、大島町は深川区扇橋に両町村の負担で給水所を設置、亀戸町は本所区柳島元町の元船舶給水所を臨時給水所として使用した。
  5. ^ なお汚水ほどではないが当時の川の水も非常に混濁していて不清潔であった。
  6. ^ 当然臭気や衛生面の問題があるほか、ポンプ内に砂利などが入ることで消防設備の劣化が早まる問題もあった。
  7. ^ 同社の認可は同地においては下りなかった。荒玉水道町村組合の給水区域の方面で認可が下りた(王子水道、新宿水道)ものの、それも立ち消えになっている。
  8. ^ なお住所は江戸川上水道誌においては「亀戸町大字亀戸字水神東宅地2955番地」、東京市の市域拡張調査資料においては「亀戸町4丁目48番地」、墨田区史や東京都水道史においては「江東区亀戸町4丁目49番地」とされている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 東京都水道史』東京都水道局、1952年、306-318頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2464428 
  2. ^ a b c d e f g h 江戸川上水道誌』東京府江戸川上水町村組合、1928年https://dl.ndl.go.jp/pid/1075311 
  3. ^ 日本橋エリア特集 Part.7 | エリア特集 | 中央区まちかど展示館”. chuoku-machikadotenjikan.jp. 2024年12月23日閲覧。
  4. ^ 葛飾区史|第3章 近代化への道(明治~戦前)”. www.city.katsushika.lg.jp. 2024年12月24日閲覧。
  5. ^ a b c 墨田区史 本編』東京都墨田区、1959年、1221-1236頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3041821 
  6. ^ a b 職業別電話名簿 第22版』日本商工通信社、1932年、1422頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1121035/1/727 
  7. ^ 須賀川理 (2024年3月17日). “【レトロの美】金町浄水場取水塔 東京都葛飾区とんがり帽子と丸帽子 - アートの森”. growing-art.mainichi.co.jp. 毎日新聞社. 2024年12月24日閲覧。
  8. ^ 管理者 (2018年11月2日). “金町浄水場の歴史 江戸・明治時代からの水道の変遷”. 江戸川フォトライブラリー. 2024年12月24日閲覧。
  9. ^ 市域拡張調査資料 第1』東京市、1932年、429頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1212842/1/225 
  10. ^ 江戸川区史第二巻』東京都江戸川区、1976年3月、1165-1167頁https://adeac.jp/edogawa-lib/catalog/mp100020-100005 

関連項目

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外部リンク

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