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永正地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永正地震
本震
発生日 永正7年8月8日・ユリウス暦1510年9月11日
規模    M6.7(諸説あり)
最大震度    震度6:摂津・河内付近
津波 あり(疑わしい)
被害
被害地域 畿内
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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永正地震(えいしょうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)の永正年間に発生した地震津波

永正年間には主な被害地震津波として以下の記録が現存するが、戦乱の時代であったため詳細な記録に乏しく、何れも不明な部分が多い。

名称 ユリウス暦換算 グレゴリオ暦換算 被害地域
永正7年8月8日の地震 1510年9月11日 1510年9月21日 摂津河内附近の地震[1]
永正7年8月27日の津波 1510年9月30日 1510年10月10日 遠江の津波
永正9年8月4日の津波 1512年9月3日 1512年9月13日 阿波の津波
永正17年3月7日の地震 1520年3月25日 1520年4月4日 京都紀伊の地震[2]

何れの地震も津波の記録が存在しているが疑わしく、暴風雨による高潮との見方も有る[3][4]。これらの内、永正7年の遠江、および永正9年の阿波の津波記録には地震記事が見出されず、永正の大津波(えいしょうのおおつなみ)とも呼ばれる。

永正7年8月8日の地震

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永正7年8月8日刻(ユリウス暦1510年9月11日4時頃、グレゴリオ暦9月21日)に大地震が発生し、京都では声響と共に強い地震を感じ(『実隆公記』)、摂津では四天王寺の石鳥居、金堂本尊が大破、河内では常光寺、剛琳寺、藤井寺が潰れた。天王寺や藤井寺附近の震度は6程度と推定されている[5]

『写本大般若経奧書文節略』

干時永正七年庚午八月

大和・山城、大風大地震仕、天王寺石鳥居ユリ崩レ、同藤井寺ノ本堂忽ニクツレヌ、前代未聞ノ世間ノサタナリ、即時ニ旦那ル鳥居、同藤井寺モ造立候、

『暦仁以来年代記』には津波を示唆する記録が見られるが、『暦仁以来年代記抄節』では「波荒」が「波花」となっており、高潮は地震によるものとは限らないとされる[4]

永正七年八月七日夜大地震、天王寺石鳥居崩、浦々高鹽充滿、波荒シテ人家損失云々

大森房吉(1913)は、本地震は奈良附近から大阪を経て四国の東北端に延長される一帯に発生した地震で、1361年正平地震や1854年伊賀上野地震と同系列に属するものと考えた[6]。本地震を生駒断層帯に属す誉田断層の活動とする見解もある他、これを否定する意見、或は上町断層の活動とする説がある[3]

河角廣(1951)は斑鳩付近(北緯34.6°、東経135.7°)に震央を仮定し規模MK = 3.6 を与え[7]マグニチュードM = 6.7に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は(北緯34.6°、東経135.6°)に震央を仮定し M 6.5-7.0としている[4]

永正7年8月27日の津波

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淡水湖であった浜名湖が津波・地盤沈下によって海に通じたのは『東栄鑑』等の記録から明応地震の時であるとされる一方で、『重編応仁記』には、永正7年8月27日(ユリウス暦1510年9月30日、グレゴリオ暦10月10日)から翌日に掛けての津波によって浜名湖が海に通じて今切を生じたと記録されている[8][9]。しかし、この記事は浜名湖の今切の由来に関するものしか見出せず、地震が原因でないともされる[4]

永正七年廿七日、同廿八日ニ遠州ノ海辺夥ク波打来テ、数千ノ在家ヲ流シ捨テ、死亡スル者数ヲ不知、陸地三十余町、悉海ト成テ、旅人俄ニ船ヲ設テ往行ス、其レヨリ此所ヲ今ギレノ渡リト名付ケリ、誠ニ乱世末代ト云ナカラ、類稀ナル災変也、

永正9年8月4日の津波

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阿波宍喰の旧家に伝わる1854年安政南海地震後に編纂された文書『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日宝永四年十月四日嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』(以下『震潮記』)には、永正9年8月に宍喰浦(現・徳島県海陽町)に大津波が襲い多数の死者を出したとある[10][11]。いっぽう、『震潮記』の記事の元になったと思われる「円頓寺開山住持宥慶之旧記」中の「当浦成来旧記書之写」の記述について不自然な点がいくつか指摘され、永正9年の津波の存在自体に疑問を呈する研究もある[12][13]

津波記事の内容は以下のようなものである。

大津波により宍喰浦は全て流失し、城山へ逃げ上った者は数十名であった。南橋より向こうの町分は家が残らず流失したが山が近かったため、死者は少なかったのに対し、橋より北分では町屋の破損は少なかったにもかかわらず死者が多く出た。合計の死者は2200人余、助かった者は1500人余であった(両所の人口の合計は3700人)。

宍喰浦成来旧記之写

当浦之儀永正九年八月に洪浪入り惣処残らず流出、処の城山へ逃上る者数拾人也。南橋より向之町分も残らず流出。然れども此所は山近く多くの死人これ無く候。橋より北分の町家は多く痛みこれ無く候得ども死人多くこれ有り候。およそその節、両所の老若男女とも三千七百余人なり相助人千五百余人也。橋より向之町家残らず流出、土地ことごとく掘れ一面の川成り。在処残らずにつき相助かる両町の者、相集い城主藤原朝臣下野守元信公同宍喰村城主藤原朝臣孫六郎殿御両殿諸寺諸社は申すに及ばず町家も残らず、それぞれ町並にして御取立下され候。

津波襲来時、城山(愛宕山)の大手門が閉じられていたため、城内へ入ることに難儀し死者が多く出たという(『震潮記』)。

城主藤原朝臣孫六郎の屋敷、全ての寺社、町屋は町並みにして復興されることとなった。海辺にあった大松原の松は切り払われ家道具の材料とされた。城内は少々の破損であったが、復興のために取り立てられた家数は、下屋敷御家中町は130軒、浦郷町屋1700軒(内百姓650軒、町屋1050軒)、浦郷町屋・寺社とも併せて総家数は1805軒であった(『震潮記』)。

この津波記事には地震動の記事が見当たらず、日本国内はもとよりチリなどからの遠地津波の元となる記録も見当たらず「幻の津波」と呼ばれる。台風の時期に当たるため暴風による高潮との説もあるが、被害の残る地域が宍喰のみであり、1934年にこの地方を襲った室戸台風でさえ3m程度の高潮であった事から疑問が残る[10]

文書のタイトルの日付8月4日(ユリウス暦1512年9月3日、グレゴリオ暦9月13日)の根拠は不明であるが、この年の6月9日亥刻(ユリウス暦1512年7月21日22時頃、グレゴリオ暦7月31日)に京都において長い震動の記録があり、余震の様子から京都から離れた巨大地震の可能性を示唆し、日付の誤記の可能性も含めて関連の可能性も考えられている[14]

永正17年3月7日の地震

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永正17年3月7日(ユリウス暦1520年3月25日、グレゴリオ暦4月4日)、大地震が発生し、熊野で浜ノ宮寺、本宮坊舎、新宮阿闕井が潰れた。熊野浦々で民家が流失したと記され、津波の可能性もあるが暴風雨による可能性も否定できず詳細は不明[4]。熊野附近の震度は6程度と推定されている[5]

熊野年代記古写』

永正十七年三月七日

申ノ時大地震、那智如意堂震ニジル浜ノ宮寺本宮坊舎新宮阿闕井崩浦々民家ヲ流ス

二水記』には「入夜風緊吹、禁中築地所々及破損了、」とあり、京都でも御所の築地に破損があったとされる。

翌年の永正18年8月23日(ユリウス暦1521年9月23日)には、兵革・天変等により大永改元された[15]

河角廣(1951)は熊野灘(北緯33.6°、東経136.3°)に震央を仮定し規模MK = 4.3 を与え[7]マグニチュードM = 7.0に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は紀伊半島沖(北緯33.0°、東経136.0°)に震央を仮定し M 7.0-7 3/4としている[4]

本地震は熊野灘附近を震源とする M 7クラスの地震の可能性があるが、フィリピン海プレートのスラブ内地震の可能性があるとされる[16]南海トラフ巨大地震の震源域附近で発生したと推定されるが、地震調査研究推進本部による2001年時点の長期評価では、南海トラフの地震の系列には属さないと評価されている[17]

脚注

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  1. ^ 寒川旭、「誉田山古墳の断層変位と地震」『地震 第2輯』 1986年 39巻 1号 p.15-24, doi:10.4294/zisin1948.39.1_15, 日本地震学会
  2. ^ 宇津徳治、「東海沖の歴史上の大地震 (PDF) 『地震予知連絡会地域部会報告』 1977年
  3. ^ a b 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
  4. ^ a b c d e f 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
  5. ^ a b 宇佐美龍夫 1994.
  6. ^ 大森房吉(1913)、「本邦大地震概説」 震災豫防調査會報告, 68(乙), 93-109. 1913-03-31, hdl:2261/17114
  7. ^ a b 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値」 東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482, hdl:2261/11692
  8. ^ 文部省震災予防評議会『大日本地震史料 増訂』1941年
  9. ^ 阿部浩一(1998)、「中世浜名湖水運と地域社会(<シンポジウム>道・宿・湊 : 中世の交流と物流)」 史学雑誌 1998年 107巻 11号 p.1997-1998, NAID 110002362513, doi:10.24471/shigaku.107.11_1997
  10. ^ a b 猪井達雄, 澤田健吉, 村上仁士『徳島の地震津波 -歴史資料から-』市民双書、徳島市立図書館、1982年
  11. ^ 安心とくしま 震潮記(第1回)
  12. ^ 石橋克彦『永正九年(1512)の阿波宍喰浦洪浪災害を記す「当浦成来旧記書之写」の問題点』日本地球惑星科学連合2018年大会、2018年
  13. ^ 石橋克彦『永正九年 (1512) 六月九日地震と同年宍喰洪浪に関する諸問題―1498年明応東海地震と対をなす南海地震に関連して』歴史地震、33号、pp. 157-156、2018年
  14. ^ 石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会 』岩波出版、2014年
  15. ^ 矢田俊文『中世の巨大地震』吉川弘文館、2009年
  16. ^ 石橋克彦, 佐竹健治、「総合報告: 古地震研究によるプレート境界巨大地震の長期予測の問題点 -日本付近のプレート沈み込み帯を中心として-」『地震 第2輯』 1998年 50巻 appendix号 p.1-21, doi:10.4294/zisin1948.50.appendix_1, 日本地震学会
  17. ^ 地震調査研究推進本部(2001) 南海トラフの地震の長期評価について

参考文献

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  • 震災予防調査会編 編『大日本地震史料 上巻丸善、1904年、pp.162-164, pp.164-166, pp.169-170頁。NDLJP:993658https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993658 
  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 一巻』文部省震災予防評議会、1941年。  pp.474-479, pp.483-484, pp.490-491 国立国会図書館サーチ
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』日本電気協会、1981年。  pp.126-127, p.127, p.128, p.129
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』日本電気協会、1989年。  p.57, pp.57-58
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』日本電気協会、1994年。  pp.20-21
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺』東京大学地震研究所、1999年3月。  p.8-12
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺二』東京大学地震研究所、2002年3月。  p.31
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺三』東京大学地震研究所、2005年3月。  p.29
  • 宇佐美龍夫, 大和探査技術株式会社, 日本電気協会『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』日本電気協会、1994年。 NCID BN10781006https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002533920-00