永松為治郎
表示
永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。
人物
[編集]1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。
1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる[1]。
1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任[2]。
1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任[3]。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
1915年、第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会より出馬するも落選 (同区からは小泉又次郎らが当選) [4]。同年、橋本圭三郎らと宝田石油へ入社し、その後日本石油 (現ENEOSホールディングス) 重役となる[5]。
1939年に逝去。
1914年から1928年にかけて、現在の価値で計約7,000万円の寄付を行い、地域発展に寄与した。
脚注
[編集]- ^ “大分県人士録”. 2019年3月19日閲覧。
- ^ “開港五十年紀念横浜成功名誉鑑”. 2020年9月22日閲覧。
- ^ 馮軍南「20世紀初期南沙群島における日本の経済活動 : ラサ島燐砿株式会社を中心に」『東アジア文化交渉研究』第12巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2019年3月、331-344頁、ISSN 1882-7748、NAID 120006605932、20222-05-06閲覧。
- ^ “大日本政戦記録史”. 2019年10月9日閲覧。
- ^ 小林久平「本邦石油工業の發達及び現況」『燃料協会誌』第15巻第9号、日本エネルギー学会、1936年、1132-1150頁、doi:10.3775/jie.15.1132、2022年5月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本紳士録』交詢社、第12-21版、第25-36版。
- 『人事興信録』人事興信所、第3-5版、第8版。
- 『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。
- 『宝田石油株式会社25年史』宝田石油(株)、1920年。
- 『日本石油史: 創立70周年記念』日本石油(株)、1958年。
- 『宇佐市史』宇佐市刊行会、1979年。