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水谷勝阜

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水谷 勝阜(みずのや かつおか)、万治3年(1660年) - 享保18年11月20日1733年12月25日))は、江戸幕府旗本官位従五位下信濃守。通称は弥之助。父は水谷勝能、母は安藤重矩の娘。兄弟に水谷勝睦がいる。妻は妻木頼保の娘。子に勝晴水谷勝美の養子となった)、永井白弘室、諏訪頼安室、勝比がいる。

生涯

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延宝4年(1676年)初めて徳川家綱に拝謁、延宝8年遺跡を継ぎ、小普請となった。相続した知行のうち300石を弟水谷勝睦に与え、知行1700石となる。天和元年(1681年)小姓組貞享2年(1685年)進物のお役目、元禄2年(1689年)5月使番、同年12月布衣の着用を許された。元禄8年(1695年目付となる。元禄10年(1697年)9月美作国津山藩改易の折、現地にて津山城請取の役を勤めた。元禄12年(1699年)9月、京都西町奉行となり、丹波国氷上郡に知行500石を加増され、合わせて2200石となる。同年11月従五位信濃守に叙任。宝永2年(1705年)1月仰をうけて、畿内、近江丹波播磨等の御料を巡視した。同年8月職を辞し寄合となる。のちに丹波国の知行を武蔵国多摩郡に移された。享保5年(1720年)致仕、享保18年(1733年)死去。享年74。

参考文献

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