水谷勝美
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛文3年(1663年) |
死没 | 元禄6年10月6日(1693年11月3日) |
戒名 | 隆昌寺殿天山全長大居士 |
官位 | 従五位下出羽守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 備中松山藩主 |
氏族 | 水谷氏 |
父母 | 水谷勝宗、青山幸成娘 |
兄弟 | 勝美、勝時、平山常時室ら |
妻 | 松平頼隆娘 |
子 | 勝晴 |
水谷 勝美(みずのや かつよし)は、江戸時代前期の大名。備中国松山藩3代藩主。官位は従五位下・出羽守。
略歴
[編集]2代藩主・水谷勝宗の次男として誕生。
寛文12年(1672年)2月8日、初めて4代将軍徳川家綱に御目見する。延宝4年(1676年)12月26日、従五位下出羽守に叙任。生来病弱であったが、元禄2年閏正月14日(1689年)、父勝宗の隠居により家督を継いだ。6月28日始めて領地松山に入る。
民政や治水工事、土木工事に尽力し、特に松山川沿岸の堤防は「水谷普請」と呼ばれた。しかしこのような無理と、元々病弱だったことがたたって、元禄6年10月6日(1693年11月3日)に31歳で死去した。法号は隆昌寺殿天山全長大居士。
実子がなく、従兄弟にあたる旗本・水谷勝阜の長男・勝晴を末期養子にしたが、家督相続前の同年11月27日に死去したため、水谷氏は無嗣断絶で改易となった[1]。
備中松山城の召し上げにあたって、赤穂藩主・浅野長矩が城受け取り役となり、1年半後に安藤重博が新城主として入城してくるまでの間、浅野家家老の大石良雄が松山城の管理を行った。城下で浅野・大石主従は酷評されている[2][3]。
大名としての水谷家の名跡はこれをもって絶えたが、勝美の弟水谷勝時が3000石の旗本として名跡存続を許された。さらにその養子の勝英の代に500石が加増されて3500石の上級旗本となり、この知行のままで明治維新を迎えた。