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武田信貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
武田信貞
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治3年(1557年[1]
死没 寛永3年6月23日1626年8月14日[1]
改名 勝松(幼名)[1]→信貞
別名 源兵衛[1]
戒名 活巌院殿相心浄円居士
墓所 長龍寺(北杜市)
主君 武田信玄勝頼徳川家康秀忠
氏族 源姓甲斐武田氏油川氏
父母 油川信次
大井虎昌の娘
信忠
特記
事項
父を仁科盛信とする説あり
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武田 信貞(たけだ のぶさだ)は、戦国時代の武将、江戸時代初期の旗本油川信貞とも。父は油川信次(信俊)、幼名は勝松、通称源兵衛[1]。『寛政重修諸家譜』によれば、妻は大井虎昌の娘で、信貞の子には油川信忠がいる[2]

概要

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武田信玄・勝頼の時代

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武田家臣・油川信次の子として生まれる。 生年は『寛永諸家系図伝』では弘治3年(1557年)となっているが、『寛政重修諸家譜』では元亀3年(1572年)となっている。

油川氏は武田信昌の次男で勝山合戦武田信虎に滅ぼされた油川信恵の一族であり、信貞は生き残って信虎・信玄の二代に仕えた信恵の子・信友の曾孫にあたる[2]

父・信次は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討死し、油川氏の家督を相続した。

天正4年(1576年)以降に深沢城代を務めていた武田重臣・駒井政直に代わって、駿東郡東部において奉行人としての活動を行っている「浄円」[3]と法名が一致することから同一人物である可能性が指摘されており[1]、事実であるとすれば父・信次の嫡男が長篠合戦で戦死し、仏門に入っていた浄円が還俗して油川家の家督を継いだのではないかと考えられている[4]

徳川家康に仕官

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天正10年(1582年)の織田信長による武田氏滅亡後、天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康に仕官し、知行38貫文を安堵された[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには東軍に属して参陣し、慶長19年(1614年)から翌20年(1615年)にかけての大坂の陣では伏見城在番を務め、寛永2年(1625年)10月、武蔵国都筑郡上総国埴生郡武射郡に350石を与えられた[1]

寛永3年(1626年)に70歳で死去(『寛永諸家系図伝』)[1]
『寛政重修諸家譜』では「今の呈譜五十五」と記し、命日を6月23日としている。

菩提寺は油川氏菩提寺長竜寺

異説(仁科盛信の次男説)

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正徳2年(1712年)に仁科盛信の子孫を称する仁科資真(盛信の嫡男・信基の孫)が作成した「八王子信松院江納候由緒書之控」によると、信貞は実際には仁科盛信の次男であり、生母は武田信廉の娘で信基の同母弟とされる。
信貞子孫の家伝文書によれば生年は元亀3年(1572年)で、武田氏滅亡の際には油川信次の妻に匿われ徳川家康に出仕[5]した際には、武田の残党狩りから逃れるためか信次の実子と申し立てたといい、また大井虎昌の一族であったため幼少の頃に虎昌に養育されたとしている。

また、信貞子孫が家伝文書と菩提寺長竜寺過去帳を基に作成した系譜では、寛永3年(1626年)6月28日に享年50で死去したといい、これに基づけば生年は生年は天正5年(1577年)となり、仁科盛信と親子としては世代的に矛盾がないことが指摘される[2]が、家伝文書では生年は元亀3年(1572年)あるいは元亀2年(1571年)となっている。

その他

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子孫は油川から武田に復姓し、江戸時代を通じて旗本として存続した。明治時代に兵庫県へ移住し、以後も存続している。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 丸島(2015)、p.52
  2. ^ a b c 丸島(2015)、p.53
  3. ^ 丸島(2015)、p.383 - 384
  4. ^ 丸島(2015)、p.384
  5. ^ 「八王子信松院江納候由緒書之控」は油川信次の介抱によって河窪信俊と共に家康に出仕したとするが、系図類によれば信次は長篠合戦で討死しており矛盾する。

参考文献

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  • 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)
  • 丸島和洋「油川信貞」「油川信次」「浄円」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 春日太郎『花の若武者・仁科五郎盛信』(伊那毎日新聞社、1982年)