武田信栄
表示
時代 | 室町時代中期 |
---|---|
生誕 | 応永20年(1413年) |
死没 | 永享12年7月23日(1440年8月20日) |
別名 | 通称:彦九郎 |
戒名 | 長福寺殿天遊光芸大居士[1] |
墓所 | 福井県大飯郡高浜町長福寺 |
官位 | 正五位下・伊豆守、治部少輔 |
幕府 | 室町幕府 相伴衆、若狭守護[1] |
氏族 | 若狭武田氏 |
父母 | 父:武田信繁[1] |
兄弟 | 信栄、信賢[1]、国信[1]、元綱[1]など |
武田 信栄(たけだ のぶひで)は、室町時代中期の武将・守護大名。安芸武田氏4代当主武田信繁の嫡男。室町幕府相伴衆、若狭国守護。若狭武田氏初代当主。弟に信賢、国信、元綱がいる。
生涯
[編集]永享4年(1432年)に父が6代将軍足利義教に九州出陣を命じられると同行して少弐満貞・大友持直と交戦、やがて義教に気に入られて相伴衆となった。義教は有力守護大名の取り潰しを行い、信栄に丹後国・若狭守護一色義貫誅殺の密命を下した。永享12年(1440年)5月15日、大和永享の乱に出陣中の信栄は、ともに出陣していた義貫とその子供たちをおびき出して暗殺[2]、功績により義教より若狭と尾張国知多郡を与えられた。これが若狭武田氏の起源である。
同年6月に若狭に下向。若狭には三方郡や遠敷郡(上中)に旧守護一色氏の守護代三方氏の勢力が残っていたため、信栄は隣接の遠敷郡の小浜(下中)ではなく、大飯郡の高浜に館を構えた。また、京都建仁寺に同族の九峰以成を招いて塔頭十如院を建立、以後若狭武田氏から住職を輩出した。
同年7月23日に急死。死因は病気とも、一色義貫襲撃の際に義貫の家臣・三方若狭(当時の若狭国守護代)から受けた傷が原因ともされている。法名は長福寺殿天遊光芸大居士。墓所は福井県大飯郡高浜町にある長福寺。
子が無かったため弟の信賢が若狭を相続、同年に父から安芸分郡守護職も譲られた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 今谷明、藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典』 下、新人物往来社、1988年11月、134頁。ISBN 440401533X。 NCID BN02305740。OCLC 674346924。全国書誌番号:89006830。
- 木下聡編著「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」『若狭武田氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 ; 4〉、2016年9月。ISBN 9784864031929。 NCID BB22008040。OCLC 960432943。全国書誌番号:22791261。
- 高野賢彦『安芸・若狭武田一族』新人物往来社、2006年11月、91-94頁。ISBN 4404034202。 NCID BA79485938。OCLC 170028726。全国書誌番号:21130178。