植松雅言
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政9年12月28日(1827年1月25日) |
死没 | 明治9年(1876年)6月30日[1] |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 東園家→植松家 |
父母 |
父:東園基貞、母:芝山国子(芝山国豊の娘) 養父:植松雅恭 |
兄弟 | 東園基敬、雅言 |
妻 | 藤井富子(藤井行学の二女) |
子 |
雅平、雅雄 養子:雅徳 |
植松 雅言(うえまつ まさこと)は、江戸時代後期の公家、明治時代の華族。参議・東園基貞の二男[注 1]。
経歴
[編集]山城国京都で生まれる。修理権大夫・植松雅恭の養子となる[1][3]。天保11年(1840年)昇殿を許された[3]。安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わり、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変では長州藩士のため画策した[3]。慶応2年8月(1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控となる[3]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与に任じられた[4]。その後、神祇事務局権判事、同判事加勢、神祇官判事、氷川社遷宮御用掛、神祇権大祐などを歴任し、明治4年1月18日(1871年3月8日)免本官となった[3][4]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴』 上巻、日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』 上巻、新人物往来社、2010年。