桑山元晴
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄6年(1563年) |
死没 | 元和6年7月20日(1620年8月18日) |
別名 | 長兵衛(通称)、直晴 |
戒名 | 禅渓院三叔紹玄 |
墓所 | 東京都練馬区桜台の広徳寺 |
官位 | 従五位下伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀長→秀保→秀吉(秀頼)→徳川家康→秀忠 |
藩 | 大和御所藩主 |
氏族 | 桑山氏 |
父母 | 桑山重晴 |
兄弟 | 一重、元晴、貞晴 |
子 | 清晴、貞晴、栄晴、女(岡部宣勝正室) |
桑山 元晴(くわやま もとはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。別名に直晴。大和国御所藩初代藩主。官位は従五位下・伊賀守。
略歴
[編集]永禄6年(1563年)、尾張国で桑山重晴の次男として誕生。豊臣秀長、秀保に仕えて、朝鮮出兵では甥・一晴[1]と共に朝鮮に渡海して転戦。
文禄3年(1594年)、秀保が没し大和豊臣家が断絶すると豊臣秀吉に直仕し、慶長元年(1596年)、大和御所で8,000石[2]。
慶長3年(1598年)8月、秀吉の死により遺物・景則の刀を受領[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、自ら大谷吉継の鉄砲組頭を討ち取る武功を挙げたことから、戦後に大和葛上郡において2,000石を恩賞として与えられた[3][4]。同年、父重晴が孫の一晴に(4万石中)3万石の領地を譲って隠居したが、一晴は元晴に1万石を分与して[5]支藩としたが、元晴はその1万石のうち2,000石を父の養老料とした[3]ので、御所藩1万石の初代藩主となった。
慶長11年(1606年)に父重晴が亡くなると、遺領のうち1万石を元晴の長男・清晴が相続し、元晴は6,000石を受け継ぐ。慶長14年(1609年)に清晴が勘気を蒙って改易されると、その所領であった和泉国谷川藩領1万石も与えられて、2万6,380石を領する大名となった[3]。
慶長19年(1614年)の大坂の陣においては、先手衆の藤堂高虎の配下で天王寺口に布陣。元和元年(1615年)の夏の陣では、弟の貞晴・甥の一直と共に、先鋒の水野勝成に従って道明寺口で戦い、首級17を挙げている[6]。その後も兄弟で高力忠房に従って大坂方残党を追討した。
元晴は古田織部から茶の湯について学んだ茶人でもあったが、弟の貞晴 (小傳次)も同じく茶人であり、帰陣後、二人は徳川秀忠の邸宅に招かれて茶を立て、このときに常陸国下妻で放鷹の地を褒美として与えれらた[7]。
元和6年(1620年)7月20日、死去。享年58。跡を次男・貞晴が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 奈良県 編「国立国会図書館デジタルコレクション 桑山一晴、一直、直晴」『大和人物志』奈良県、1909年、468頁 。
- 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典 第3巻』新人物往来社、1987年。ISBN 4404014023。
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第6輯』國民圖書、1923年、171-172頁 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、97頁。