松井旭
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松井 旭 まつい あさひ | |
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生年月日 | 1927年11月24日 |
出生地 | 北海道旭川市 |
没年月日 | 2012年2月21日(84歳没) |
出身校 | 中央大学専門部経済学科 |
称号 |
勲二等瑞宝章 正四位 |
第18代~23代 千葉市長 | |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1977年 - 2001年 |
松井 旭(まつい あさひ、1927年(昭和2年)11月24日[1] - 2012年(平成24年)2月21日[1])は、日本の官僚、政治家。第18代~23代千葉市長(1977年 - 2001年(6期))。
経歴
[編集]前市長荒木和成の市政で女房役を務めていたが、荒木が在職中に急逝したことに伴い1977年7月10日の市長選挙に出馬し、初当選[3]。
以後、6期24年間に亘り千葉市長を務め、千葉都市モノレール、幕張メッセなどの都市基盤整備やロッテ球団誘致[2]、政令指定都市昇格などに尽力した。
また、荒木が中止させていた新東京国際空港(現・成田国際空港)の航空燃料パイプライン敷設工事について新東京国際空港公団の協力要請に応じ、貨物列車による航空燃料暫定輸送の〝見返り〟として、市内2カ所の踏切の立体化や、西千葉駅近くの国鉄跡地の払い下げを運輸省から引き出した[4]。一方、当時成田空港問題対処にあたっていた自民党の佐藤文生は、これらの事柄については荒木存命中に既に政府・千葉市間で交渉が進められていたとしている[3]。
1977年9月14日に松井は運輸大臣田村元、新東京国際空港公団総裁大塚茂とジェット燃料暫定輸送の協定に調印した。田村運輸相は「大塚君、松井市長に頭を下げろよ。この人のおかげで開港できるんだからな」と言い、開港の目途がついた大塚空港公団総裁は大喜びで松井と握手をかわした[3]。
年譜
[編集]- 1927年 歩兵第27連隊大隊長松井源之助の子として生まれる[5]。
- 1945年
- 1946年 新潟県庁地方課に就職[5]。
- 1948年 内事局移籍[5]。
- 1951年 中央大学専門部経済学科卒業[6]。
- 1952年 自治省選挙部勤務[6]。
- 1958年 自治省財政局財政課勤務[6]。
- 1960年 公営企業金融公庫総務課庶務係長。
- 1964年 山口県下関市財政部長[6]。大量首切りに着手し、財政再建の実績を上げる[5]。
- 1967年
- 1969年 千葉市財政部長[5][6]。
- 1974年 千葉市第二助役[6]。
- 1977年 千葉市長初就任[6](以降6期)
- 2001年 千葉市長を退任
- 2012年2月21日 肺炎のため死去、84歳没[7]。死没日をもって正四位に叙される[8]。
脚注
[編集]- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、116頁。
- ^ a b “どうする広島市民球場... 千葉市とロッテ 郷土愛 広島が手本 — 選手との交流にも力 —”. 中国新聞 (中国新聞社). (2004年6月23日). オリジナルの2004年8月12日時点におけるアーカイブ。 2017年3月15日閲覧。
- ^ a b c 佐藤文生 (1978). はるかなる三里塚. 講談社. pp. 195-197
- ^ “千葉の歴史検証シリーズ33 成田国際空港「血と涙の歴史」11”. 稲毛新聞 (2005年5月2日). 2017年9月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『ちば人国記Ⅱ』每日新聞社、1988年、220-222頁。ISBN 4-620-30666-5。OCLC 674472468 。
- ^ a b c d e f g h “市民生活の質的な向上と大都市にふさわしいまちづくりを推進”. www.jiti.co.jp. 建設グラフ1999年7月号. 自治タイムス社. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “元千葉市長の松井旭氏死去”. 産経新聞. (2012年2月21日) 2012年2月21日閲覧。
- ^ 『官報』第5767号11頁 平成24年3月27日号