村前村
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むらさきむら 村前村 | |
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廃止日 | 1929年12月26日 |
廃止理由 |
分割・編入合併 天神村、村前村(一部) → 天神村 大瀬村、村前村(一部) → 大瀬村 五城村、村前村(一部) → 五城村 |
現在の自治体 | 内子町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 喜多郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,695人 (国勢調査、1920年) |
隣接自治体 | 内子町、天神村、大瀬村、五城村 |
村前村役場 | |
所在地 | 愛媛県喜多郡村前村(大字なし) |
座標 | 北緯33度33分21秒 東経132度41分27秒 / 北緯33.55572度 東経132.69081度座標: 北緯33度33分21秒 東経132度41分27秒 / 北緯33.55572度 東経132.69081度 |
ウィキプロジェクト |
村前村(むらさきむら)は、愛媛県喜多郡にあった村。現在の内子町村前などにあたる。
地理
[編集]- 河川:小田川
歴史
[編集]- 1889年(明治22年)12月15日 - 町村制の施行により、近世以来の村前村が単独で自治体を形成。
- 1929年(昭和4年)12月26日 - 分割し、一部(池窪・亀井の約40戸)が天神村に、一部(本村・喜田村・甲上日地・乙上日地・穂積の約200戸)が大瀬村に、残部(中土・長前・北浦・深谷・下成・上成の約100戸)が五城村にそれぞれ編入。同日村前村廃止。五城村に編入された区域は同村大字村前となる。
人口
[編集]経済
[編集]- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば村前村の篤農家は、「矢野行信、上田石衛」などである[2]。
地域
[編集]出来事
[編集]- 大洲藩
- 元治二年、覚帳、郡奉行
十八日(〇二月)
一、村前村産穢多松五郎義大罪者之儀、末本牢入二者相成不申候得共、何様不軽罪状故、裁許向も勘弁中之所、今日又牢死候段届出候二付、渋草へ、引捨相達ス。穢多之身分殊二重罪之者故、三ヶ寺山へ捨候も如何敷候二付右之場所江為捨候。 — 『愛媛部落史資料 近世-明治初年』308頁
出身・ゆかりのある人物
[編集]- 大星利三郎(1885年 - ?)[3] - 1912年、帝国在郷軍人会村前村分会副長に就任[3]。1918年、同村区長となり、1921年7月、国勢調査員を嘱託され、1922年1月より、在郷軍人分会長、村会議員、消防小頭等を歴任[3]。
- 大野唯吉(1873年 - ?、農業、政治家)[3] - 1912年、村前村信用組合理事となる[3]。1913年1月、村会議員に当選[3]。
- 大本石蔵(1865年 - ?、農業、政治家)[3] - 1896年、村会議員に選出された[3]。
- 河内彌衛(1895年 - ?、農業、政治家)[3] - 1922年2月、郡会議員に選出された[3]。
- 力石轟吉(1876年 - ?、政治家)[3] - 1915年12月、名誉助役となり1922年3月、同村長に当選[3]。
- 富岡関蔵(1882年 - ?、政治家)[3] - 1922年1月、村会議員に当選、同年3月助役となる[3]。
- 長尾清太郎(1870年 - ?、政治家)[3] - 1899年、区長[3]。1922年1月、村会議員に当選[3]。
- 山本好蔵(1883年 - ?、農業、製紙業)[3] - 1917年12月及び1921年12月の両期区長に選出された[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 愛媛県喜多郡編『愛媛県喜多郡統計書 明治43年』喜多郡、1912年。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923年。
- 『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』。
- 高市光男『愛媛部落史資料 近世-明治初年』近代史文庫大阪研究会、1976年。