コンテンツにスキップ

李元忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 元忠(り げんちゅう、486年 - 545年)は、北魏から東魏にかけての官僚軍人本貫趙郡柏人県[1][2][3]李瑾の従弟。

経歴

[編集]

北魏の安州刺史の李顕甫(李霊の子の李恢の子)の子として生まれた。父の平棘子の爵位を継いだ。清河王元懌司空となると、元忠は召されて士曹参軍となった。元懌が太尉に転じると、元忠は長流参軍となった。元懌が後に太傅となるとまもなく、営構明堂大都督となり、元懌の下で主簿となった。母の喪にあって辞職した。安楽王元鑑が府司馬となるよう要請してきたが、元忠は喪中を理由に固辞して受けなかった[1][2][3]

永安元年(528年)、南趙郡太守に任じられたが、酒びたりで治績を挙げることがなかった。永安3年(530年)、爾朱兆洛陽に入り、孝荘帝が幽死すると、元忠は官を棄てて家に帰った。普泰元年(531年)、高歓河北に進出すると、元忠はこれを迎えた。露車に乗り、箏と濁酒を抱えて高歓と面会し、軍政の策を進言すると、高歓に気に入られた。6月、元忠は人々を集めて西山で爾朱羽生を捕らえて斬った。そこで行殷州事に任じられた[4][5][6]。8月、爾朱兆が兵2万を率いて井陘に進出し、殷州を攻め落とすと、元忠は城を棄てて信都に逃げ帰った[7][8][9][10]中興元年(同年)、中軍将軍・衛尉卿となった。中興2年(532年)、太常卿・殷州大中正に転じた。後に従兄の李瑾が年長であるという理由で、中正の位を譲った。まもなく征南将軍を加えられた。孝武帝が高歓の長女を皇后に迎えるため、元忠と尚書令元羅晋陽に迎えに行かせた。高歓と元忠は面会すると、宴席でふざけあった。高皇后を送ったとき、元忠は晋沢で落馬して重傷を負い、一時は危篤に陥った。高歓は元忠を親しく見舞い、晋陽県伯に封じた。後に小さな過失で官を失った。ときに朝廷の人々は分裂の危機に猜疑しあった。斛斯椿らは、元忠が世俗の利益に対して淡泊で、世事に長けていなかったので、無害な人物とみなして利用しようとした。そこで中書令として返り咲いた[11][5][12]

天平元年(534年)、東魏が建てられると、太常となった。後に驃騎将軍を加えられた。天平4年(537年)、使持節・光州刺史に任じられた。光州は災害のため食糧が足りなかったので、元忠は上表して貸しつけのための食糧を求め、秋を待って回収しようとした。1万石を用立てて、元忠は万石給人と呼ばれたが、一家あたり1升1斗給されるだけで、虚名のみの実効性のない政策であった。そこで結局15万石を放出することとなった。元忠は不首尾を上に報告して陳謝したが、朝廷は責めなかった。興和4年(542年)、侍中に任じられた[13][14][15]

元忠は大任をまかされても、懐に金は持たず、常に酒に酔っていた。家政や家事には関心を持たず、庭の中の種や果実を薬として、連日の宴会や音楽の演奏を楽しんだ。武定元年(543年)、東徐州刺史に任じられたが、固辞して受けなかった。そこで驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた。高澄にもその見識を嘉されて重んじられた。ときに孫騰司馬子如が元忠のもとを訪れたが、樹の下に座って酒を飲み、庭も家屋も荒れ果てていた。その妻を呼び出すと、衣が地を曳かない姿であった。二公は嘆息して去り、大量の米や絹の衣服を贈ったが、元忠は受けとったものを人に分け与えてしまった。武定3年(545年)、本官のまま衛尉卿を領知した。その年のうちに60歳で死去した。使持節・都督定冀殷幽四州諸軍事・大将軍司徒定州刺史の位を追贈され、を敬恵といった[16][17][18]

子の李搔(字は徳況)が後を嗣ぎ、河内郡太守・尚書儀曹郎を歴任した[19][20][21]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 311.
  2. ^ a b 北斉書 1972, p. 313.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 1202.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 312.
  5. ^ a b 北斉書 1972, p. 314.
  6. ^ 北史 1974, pp. 1202–1203.
  7. ^ 魏書 1974, p. 277.
  8. ^ 氣賀澤 2021, p. 23.
  9. ^ 北斉書 1972, p. 7.
  10. ^ 北史 1974, p. 215.
  11. ^ 氣賀澤 2021, pp. 312–313.
  12. ^ 北史 1974, p. 1203.
  13. ^ 氣賀澤 2021, pp. 313–314.
  14. ^ 北斉書 1972, pp. 314–315.
  15. ^ 北史 1974, pp. 1203–1204.
  16. ^ 氣賀澤 2021, pp. 314–315.
  17. ^ 北斉書 1972, p. 315.
  18. ^ 北史 1974, p. 1204.
  19. ^ 氣賀澤 2021, p. 315.
  20. ^ 北斉書 1972, pp. 315–316.
  21. ^ 北史 1974, p. 1205.

伝記資料

[編集]

参考文献

[編集]
  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4