朽木綱貞 (陸軍軍人)
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朽木綱貞 くつき つなさだ | |
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生年月日 | 1875年12月2日 |
没年月日 | 1929年9月6日(53歳没) |
出身校 |
東京帝国大学工科大学応用化学科 (現東京大学工学部) |
前職 | 陸軍少将 |
所属政党 | 研究会 |
称号 |
正四位 従四位 従五位 |
配偶者 | 朽木芳子 |
子女 | 養子・朽木綱博 |
在任期間 | 1928年10月6日 - 1929年9月6日 |
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日[1])は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。
経歴
[編集]1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する[2]。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
東京湾要塞砲兵連隊中隊長、陸軍兵器本廠検査官、砲工学校教官などを務める。1914年(大正3年)8月、火薬研究所長に就任。1916年(大正5年)11月、砲兵大佐に昇進。陸軍科学研究所第二課長、陸軍造兵廠火工廠長などを歴任。1921年(大正10年)3月、陸軍少将となり、1924年(大正13年)2月、予備役に編入された。その他、東京帝国大学工学部講師、陸軍技術会議員などを務めた。
1928年(昭和3年)10月6日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され[3]、研究会に属したが[1]、1929年(昭和4年)9月6日薨去す。享年55歳。墓所は青山霊園。
家督は養子の朽木綱博(旧鳥取藩主家で侯爵池田仲博の子)が相続した。実娘・美知子は、綱博の実兄で池田家の後継当主であった池田徳真に嫁いだ。
家系
[編集]- 父母
- 配偶
- 妻:芳子(徳川篤守長女)
- 子女
- 長男:朽木綱紀(1901年 - 1928年)
- 長女:朽木幸子(1903年 - 1939年)
- 次女:池田美和子(1907年 - ?、池田徳真夫人)
- 養子:朽木綱博(1905年 - 1963年、池田仲博次男)
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『慶應義塾五十年史』
- 日本人名大辞典(講談社刊)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (福知山)朽木家初代 1884年 - 1929年 |
次代 朽木綱博 |
当主 | ||
先代 朽木為綱 |
旧福知山藩朽木家 1883年 - 1929年 |
次代 朽木綱博 |