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忍原崩れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
忍原崩れ
戦争戦国時代
年月日弘治2年(1556年)7月末
場所石見国邇摩郡忍原島根県大田市川合町忍原
結果:尼子軍が勝利し、石見銀山を掌握
交戦勢力
毛利軍 尼子軍
指導者・指揮官
吉川元春
宍戸隆家
口羽通良
福屋隆兼
尼子晴久
本城常光
小笠原長雄
戦力
6,000~7,000? 12,000~25,000?
損害
戦死者数百人 ほぼ無し
毛利元就の戦い

忍原崩れ(おしばらくずれ/おしんばらくずれ[注釈 1])は、弘治2年(1556年)7月に石見国邇摩郡忍原[注釈 2]毛利氏尼子氏に敗北した戦いを指す。正徳2年(1712年)刊行の軍記物陰徳太平記』では新原崩(しんばらくずれ)と呼ばれている。

背景

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石見銀山の領有者

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石見国邇摩郡大森[注釈 3]石見銀山(大森銀山)大永7年(1527年)に博多商人神屋寿禎によって発見され[2]大内義興の支配の元で本格的な採掘が始まった。

江戸時代後期の文化13年(1816年)に石見銀山の地役人である大賀覚兵衛によって著された『銀山旧記(銀山要集)』によると、享禄4年(1531年)に石見小笠原氏小笠原長隆が大内氏から銀山を奪取して以降、天文2年(1533年)に大内氏、天文6年(1537年)に尼子氏、天文8年(1539年)に大内氏というように頻繁に領有者が変わる激しい争奪戦が繰り広げられ、天文9年(1540年)からは石見小笠原氏による支配が続いたとされている[3]。しかし、『銀山旧記』は江戸時代に成立した『陰徳太平記』、『小笠原十五代記』、『丸山伝記』等の軍記物伝記の影響が見られ、全てを事実と見なすことはできないことが指摘されている[4]

石見小笠原氏は享禄4年(1531年)に石見銀山に近い邑智郡祖式高城を領有し、天文年間には邇摩郡の大家方面に進出する等、その勢力を拡大させていっているが、石見銀山を直接領有するには至っておらず[5]、尼子氏も天文10年(1541年)3月には安濃郡大田、天文12年(1543年)9月には邇摩郡久利郷に進出して大内方の久利氏と交戦する等の軍事行動を展開してはいるが、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて行われた吉田郡山城の戦いにおける敗戦の影響もあってか、以降の石見国への進出には消極的であったとされる[6]

以上より、石見銀山は大内義興、大内義隆大内義長と代替わりしつつも大内氏によって支配されており、石見国安濃郡刺賀郷を本拠とする国人である刺賀長信が石見銀山近くの山吹城の城番に任じられ[7]、天文22年(1553年4月5日には大内義長から本拠地である安濃郡刺賀郷500貫の知行地や邇摩郡重富村40貫の知行地等を安堵されている[7][8]

石見銀山と忍原

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石見銀山は江戸幕府天領とするまでは商人の独自権益であり、毛利氏・尼子氏などの諸大名はその産する銀鉱石やそのものを輸送する津料(通行税)を徴収していた。その権利を確保するために銀山のすぐ近くに大内氏が山吹城や矢滝城を築いており、銀を産する山の方が両城より標高が高いが鉱夫やその家族を殺傷することは不利益になるため大名はこちらにはあまり手を加えなかったようである。

石見銀山を確保するにあたって大きな焦点になったのは山吹城である。山吹城は急峻な山頂に構えられた堅城であることから力押しでの攻略は難しく、攻め手が取れる手段は城主に有利な条件を提示して調略で降伏させるか、兵糧攻めにして降伏させるかであった。調略が通用しない場合は兵糧攻めを行うこととなり、この兵糧攻めが石見銀山を巡る争いの基本となった。

石見銀山へと尼子氏が進軍するときに使う主要道(現:国道9号線)とT字状に交わる道(現:国道375号線)の途上に忍原は位置している。地元の資料[9]には合戦場は当時、亀谷城[10](亀谷城山)を中心として周囲に鍛冶屋屋敷や武家屋敷を要する交通と経済の要衝であったとある。

忍原の尼子側拠点である亀谷城が落城した場合は、山吹城を攻めている尼子軍への補給路を毛利軍によって絶たれることを意味し、海路で兵糧を運ぶとしても城の周囲に展開する毛利軍を突破しなければならなくなる。逆に、忍原と亀谷城を尼子側が確保すれば、毛利側の補給路を脅かすことなるため、石見銀山を確保するには両者共に忍原が戦略的には重要な価値を持っていたのである。

合戦の経過

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毛利氏の石見進出

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天文24年(弘治元年、1555年10月1日厳島の戦い毛利元就陶晴賢を破って防長経略を開始すると、弘治2年(1556年)4月までに山吹城の城番を務める刺賀長信が石見国に所領を有する毛利氏家臣の口羽通良(当時は志道通良)を通じて毛利氏に帰順し、引き続き山吹城の城番を務めることで、石見銀山は毛利氏が領有することとなった[7][11]

また、西隣に位置する川本温湯城主の小笠原長雄による圧迫を受けていた泉山城主である佐波興連隆秀父子も口羽通良を通じて毛利氏への帰順を申し出た[12][13]。防長経略のために周防国玖珂郡岩国に在陣していた毛利元就は、佐波氏の服属が小笠原長雄を刺激してかえって毛利氏との敵対を深めることを危惧し、佐波氏服属の成立は元就・隆元父子が帰陣するまで待つようにと口羽通良に何度も申し送ったが、口羽通良と佐波興連父子は事を急ぎ、元就・隆元父子が岩国に在陣して防長経略に忙しい中で佐波氏の帰順を成立させた[12][14]。毛利氏は佐波興連の泉山城までの伝えの城として邑智郡の都賀城用路城を確保し、一方の小笠原長雄は尼子氏との連携を深めた[11]。しかし、元就の懸念通り佐波氏の毛利氏帰順が小笠原長雄を刺激し、佐波氏は石見小笠原氏と尼子氏の挟撃を受ける形となり[12]、佐波氏と石見小笠原氏は同年3月4日3月7日に邑智郡吾郷村の竹において戦っている[15][16]

同年3月、毛利氏による周防国玖珂郡の制圧がほぼ完了したため[11]、石見小笠原氏と尼子氏に挟まれた佐波氏の状況を鑑みて、防長経略を円滑に進めるために[17]尼子氏の進攻に備えて側背の脅威を除く必要に迫られた毛利元就は、吉川元春を石見国に派遣することを決定[18]3月18日吉川元春宍戸隆家、口羽通良、桂元忠らが兵を率いて石見国邑智郡阿須那に進出し、その旨を毛利元就は3月20日熊谷信直へ返書で報じている[19]。吉川元春らは先に確保した都賀城や用路城に加えて、邑智郡布施村に新たに山南城を築いて防備を固め、佐波興連との連携を強化した[11][19]3月25日に毛利元就は吉川元春、宍戸隆家、口羽通良、桂元忠に宛てて書状を送り、邇摩郡方面で必要になれば出陣する旨を伝えている[20][21]

前哨戦

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同年4月1日、毛利隆元は飯田元重を佐波氏の本拠地である泉山城に派遣して佐波興連を助けて城を堅守するよう命じ[22]、さらに4月8日に毛利元就・隆元父子は吉川元春らが進出した邑智郡阿須那の西隣に位置する二ツ山城主・出羽元祐に邑智郡の君谷[23]高見、山南の地をそれぞれ半分ずつ与えて[24]、吉川元春らを支援するように依頼した[22]4月11日、邑智郡飯山にて佐波氏と石見小笠原氏が再び戦っている[25][26]

毛利元就は5月2日付けの吉川元春と宍戸隆家への返書において、尼子氏と石見小笠原氏への対応は佐波興連や刺賀長信とよく相談して軽挙に及ばないようにすることを命じ[22][27][28]5月7日に毛利元就は吉川元春と宍戸隆家が元就の命に従って佐波の在陣衆と相談の上で佐波興連と刺賀長信と連絡を取り合ったのは良いことであると伝えている[29][30]

以上のように毛利元就は防長経略と並行して石見国で大きな問題が発生することを極力回避しようとしていた[22]が、5月上旬から尼子晴久が石見銀山方面への進攻を開始[11][31]。この時の尼子軍の進攻は吉川元春、宍戸隆家、口羽通良らが防ぎ、尼子軍を撃退することに成功したため、毛利元就は5月11日に吉川、宍戸、口羽の3人に対して書状を送り、尼子軍を撃退したことは大慶であり、とりわけ御内衆の働きは比類なきものであるとその武功を讃えている[11][29][32][31]

同年6月26日、毛利元就・隆元父子が刺賀長信に書状を送り、刺賀長信父子の進退の儀については承知したので、父子共に粗略に扱うことはしないので安心するようにと伝える[31][33][34]

忍原崩れ

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同年7月に尼子晴久は更なる大軍を率いて再び石見国に進攻して[11]安濃郡大田に陣を進め、大田の南方約1里にある安濃郡川合に先鋒を派遣して山吹城と毛利軍との糧道と連絡路を遮断した[35]。その対応のために毛利軍も軍を進め、7月29日頃に川合の南方約1里にある邇摩郡忍原において尼子軍と合戦に及んだが、毛利軍は宍戸隆家家臣の宍戸大蔵山内隆通家臣の須沢某、吉川元春家臣の岡崎七郎次郎をはじめとする死傷者数百人を出す敗戦となった[36]。この時の合戦が後に「忍原崩れ」と称されている[注釈 1][37]

7月29日、周防国玖珂郡岩国から石見国に出陣する毛利元就は、翌日に石見国邑智郡阿須那へ出陣するので急ぎ同道するように山県就相に出陣を命じている[38][39]が、忍原にて毛利軍が尼子軍に敗北したとの報せがその日の夜中に元就のもとに届けられ、翌7月30日に元就は安芸国高田郡生田に軍を進めて吉川元春らに助力する旨の書状を桂元澄に宛てて送っている[40][41]

山吹城陥落

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7月末の石見国邇摩郡忍原における合戦で毛利軍を破った尼子晴久は続けて石見銀山まで攻め寄せ、8月初旬には刺賀長信と高畠遠言が籠もる山吹城を攻めるための付城として矢筈城三ツ子城三久須城を築いて山吹城を攻撃したが、吉川元春が山吹城の後詰として出陣し、佐波興連も佐波にいた毛利軍の一部と共に西進して山吹城の救援に向かったため、尼子晴久は矢筈城、三ツ子城、三久須城を放棄して一時撤退[35]。撤退する尼子軍の追撃のために山吹城の兵も打って出て、尼子軍を多数討ち取り[7][35][42][43][44]8月8日に毛利軍と佐波軍は安濃郡池田を奪取した[35][43][44]

8月9日に毛利元就は小早川隆景家臣の乃美宗勝に対する返書で、石見国おける戦況を伝えて引き続き安濃郡大田へ進軍する予定と伝達すると共に、もし直ぐに石見小笠原氏と決着できるのであれば攻め切り、そうでなければ石見小笠原氏については後回しにしてまずは周防国へ向かうようにと指示した[43][44]

8月12日に毛利隆元は尼子軍と戦うために石見国に在陣している者たちのもとへの使者として派遣するために糸賀平左衛門尉に出頭を命じ、刺賀と静間大工によく言い聞かせるために佐波隆秀にも石見銀山に赴くよう命じる[45][46]。また、8月26日に毛利元就は佐波興連・隆秀父子に邑智郡都賀の半分を知行として与え、尼子氏と小笠原氏への対抗のために用路城を守るよう命じた[22][47]

また、吉川元春は8月30日に石見国那賀郡周布郷の国人・周布氏の一門である周布兼遠からの邇摩郡福光についての申し出を了解したとして50貫を与えると伝えると共に、尼子軍が武略を講じているが油断しなければ問題無いと伝えている[48][49][50]。さらに翌9月1日に毛利元就は周布氏当主の周布千寿丸(後の周布元兼)に所領[注釈 4]を安堵し[51][52][53]、周布氏重臣の周布兼遠、吉地右衛門尉松武大蔵少輔に佐波氏への支援や大内氏に属する那賀郡三隅三隅氏への対応を求めている[22][54][55]

しかし、一時撤退していた尼子晴久が再び進攻して9月3日までに刺賀長信や高畠遠言が守る山吹城をはじめとして石見銀山方面の毛利方の諸城を攻略[42][54][56][57]。晴久は9月3日に益田兼貴益田兼順に書状を送って、石見銀山方面の敵城を全て制圧したことを伝え、油断無きことを求めている[54][56]。さらに尼子晴久は開城した刺賀長信と高畠遠言を温泉津海蔵寺で自害させ、出雲国飯石郡須佐高櫓城主・本城常光を山吹城の城番に任じ、石見銀山の支配に当たらせた[37][42][57]また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬牛尾久清との連絡網を構築する[要出典]

山吹城の陥落に際して、刺賀長信の三男である刺賀吉信は毛利氏のもとに逃れており、弘治3年(1557年8月19日に毛利氏の奉行人[注釈 5]から石見国に帰国するまでの当座の知行地として長門国吉田郡松屋村で70石の地を預けられた[58]

戦後

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弘治3年(1557年)4月に防長経略を完了させた毛利元就は、永禄2年(1559年)2月に同盟相手である備中国三村家親を助けるために毛利隆元、吉川元春、小早川隆景らと共に備中国に出陣し、尼子氏の後ろ盾を得て三村家親と対立した庄為資を降伏させ、備中国をほぼ平定した[59][60]

同年5月4日に備中国から吉田郡山城に帰還した毛利元就らはほとんど休む間もなく、5月20日に吉田郡山城から石見国に出陣[61][62]。同年5月末から尼子方の小笠原長雄の本拠地である川本温湯城への攻撃を開始して、8月には小笠原長雄を降伏させた[62][63]

毛利軍は続いて本城常光が守る山吹城の攻略を目指したが、豊前国において門司城をめぐる大友氏との戦いが激化したことで石見方面に戦力の集中的投入が困難となったため、力攻めによらない調略等での山吹城奪取を検討したが、それまで石見国中部・東部の無二の毛利与党であった音明城主の福屋隆兼が石見小笠原氏服属後の処遇に対する不満を理由として尼子方に寝返ったため、山吹城の攻略を一旦断念することとなる[62]

永禄4年(1561年)に小笠原長雄に山吹城を攻撃させたが、本城常光の抗戦により陥落させることは出来なかった[64]。そこで毛利氏は永禄5年(1562年)6月に本城常光を懐柔して寝返らさせることで、尼子氏から石見銀山を奪還することに成功した[64][65]

合戦の時期についての旧説

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忍原崩れの時期について、かつては永禄元年(1558年)とする説もあり、書籍[66][67][68]や自治体史[69]、現地の案内板の説明[70]でも採用されていた。

しかし、原慶三等の研究者によって関係する古文書の年代比定が進められた結果、永禄元年(1558年)説は既に否定されており[71]、上記のように弘治2年(1556年)であることが定説となっている。

なお、山吹城の落城時期についても江戸時代に成立した諸資料では相違があり、『芸陽記』や『吉田物語』は永禄元年(1558年)、『陰徳太平記』では永禄2年(1559年)、『銀山旧記』では永禄4年(1561年)、『安西軍策』では永禄5年(1562年)としている[注釈 6][37]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 吉川氏家臣である森脇春方が記した『森脇覚書』においては「をしん原崩」と記されている[1]
  2. ^ 現在の島根県大田市川合町忍原
  3. ^ 現在の島根県大田市大森
  4. ^ この時元就が周布千寿丸(後の周布元兼)に安堵した所領は邇摩郡福光の内の本地50貫[51]、邇摩郡上村の内の18貫[51]、邇摩郡井尻と福田の60貫[52]、邇摩郡内の湊分25貫[52][22]
  5. ^ 刺賀吉信への知行宛行状は赤川元保大庭賢兼河屋隆通波多野興滋岩正興致小原隆言仁保隆慰吉田興種児玉就忠粟屋元親国司元相桂元忠が連署しており、この時期によく出されている毛利氏の五奉行と旧大内氏家臣の奉行人によるものとなっている[58]
  6. ^ この内、永禄4年(1561年)と永禄5年(1562年)は尼子晴久の死後となるため、明確な誤りである[37]

出典

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  1. ^ 中国史料集 1966, p. 201.
  2. ^ 大田市教育委員会 2018, p. 98.
  3. ^ 大田市教育委員会 2018, p. 52.
  4. ^ 大田市教育委員会 2018, pp. 52–53.
  5. ^ 大田市教育委員会 2018, p. 53.
  6. ^ 大田市教育委員会 2018, pp. 53–54.
  7. ^ a b c d 大田市教育委員会 2018, p. 54.
  8. ^ 『閥閲録』巻66「刺賀佐左衛門」第11号、天文22年(1553年)4月5日付け、大内義長知行宛行状写。
  9. ^ 大田市川合町忍原にある案内板「名勝 忍原峡案内図」。
  10. ^ 亀谷城跡 - 島根県遺跡データベース(島根大学地域貢献推進協議会・遺跡データベース分科会)
  11. ^ a b c d e f g 山本浩樹 2007, p. 98.
  12. ^ a b c 毛利元就卿伝 1984, p. 331.
  13. ^ 山本浩樹 2007, pp. 97–98.
  14. ^ 『閥閲録』巻84「兒玉彌七郎」第9号、弘治3年(1557年)比定3月23日付け、兒若(児玉若狭守就秋)宛て、もと就(毛利元就)書状写。
  15. ^ 中世川本・石見小笠原氏関係史料集 2021, pp. 80–81.
  16. ^ 『尾原義雄氏所蔵文書』、弘治2年(1556年)3月10日付け、尾原弥兵衛尉との宛て、佐波興連袖判感状写。
  17. ^ 山本浩樹 2007, p. 100.
  18. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 332.
  19. ^ a b 『熊谷家文書』第131号、弘治2年(1556年)比定3月20日付け、兵庫頭(熊谷信直)殿宛て、(毛利)右馬頭元就書状案。
  20. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 280.
  21. ^ 毛利博物館蔵諸家文書』、弘治2年(1556年)比定3月25日付け、(宍戸)隆家・刑太(志道刑部大輔通良)・左太(桂左衛門大夫元忠)・(吉川)元春宛て、右馬元就(毛利右馬頭元就)書状。
  22. ^ a b c d e f g 毛利元就卿伝 1984, p. 333.
  23. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第5号、弘治2年(1556年)4月8日付け、出羽民部大輔(元祐)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署宛行状写。
  24. ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第6号、弘治2年(1556年)4月8日付け、出羽民部大輔(元祐)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署宛行状写。
  25. ^ 中世川本・石見小笠原氏関係史料集 2021, p. 82.
  26. ^ 『尾原義雄氏所蔵文書』、弘治2年(1556年)4月11日付け、尾原弥兵衛尉との宛て、佐波興連袖判感状写。
  27. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 281.
  28. ^ 『譜録・刺賀治部左衛門信続』、弘治2年(1557年)比定5月2日付け、(宍戸)隆家・(吉川)元春宛て、(毛利)元就書状写。
  29. ^ a b 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 282.
  30. ^ 『閥閲録』巻5「毛利宇右衛門」第5号、(宍戸)隆家・(吉川)元春宛て、(毛利)元就書状写。
  31. ^ a b c 毛利元就卿伝 1984, p. 363.
  32. ^ 『宍戸家文書』、弘治2年(1556年)比定5月11日付け、(宍戸)隆家・刑太(志道刑部大輔通良)・(吉川)元春宛て、(毛利)元就書状。
  33. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, pp. 282–283.
  34. ^ 『閥閲録』巻66「刺賀佐左衛門」第2号、弘治2年(1556年)比定6月26日付け、刺賀治部少輔(長信)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署状写。
  35. ^ a b c d 毛利元就卿伝 1984, p. 364.
  36. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 364–365.
  37. ^ a b c d 毛利元就卿伝 1984, p. 365.
  38. ^ 中世邑南町域関係史料集 2024, p. 126.
  39. ^ 『閥閲録』巻133「山縣四郎三郎」第3号、弘治2年(1556年)比定7月29日付け、山縣左衛門大夫(就相)殿宛て、(毛利)元就書状。
  40. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 283.
  41. ^ 『毛利家文書』第636号、弘治2年(1556年)比定7月30日付け、能登守(桂元澄)殿宛て、右馬元就(毛利右馬頭元就)自筆書状。
  42. ^ a b c 山本浩樹 2007, p. 99.
  43. ^ a b c 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, pp. 283–284.
  44. ^ a b c 『浦家文書』、弘治2年(1556年)比定8月9日付け、乃美兵部丞(宗勝)殿宛て、(毛利)元就書状。
  45. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 284.
  46. ^ 『閥閲録』巻169「糸賀勘左衛門」第4号、弘治2年(1556年)比定8月12日付け、糸賀平左衛門尉殿宛て、(毛利)隆元書状写。
  47. ^ 『閥閲録』巻71「佐波庄三郎」第9号、弘治2年(1556年)8月26日付け、佐波興連・佐波隆秀宛て、(毛利)元就書状写。
  48. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 285.
  49. ^ 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第180号、弘治2年(1556年)比定8月30日付け、周布(元兼)殿宛て、吉川元春書状写。
  50. ^ 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第181号、弘治2年(1556年)比定8月30日付け、周布下総守(兼遠)殿・吉地右衛門尉殿宛て、吉川元春書状写。
  51. ^ a b c 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第176号、弘治2年(1556年)比定9月1日付け、周布千寿丸(元兼)殿宛て、毛利右馬頭元就書状写。
  52. ^ a b c 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第177号、弘治2年(1556年)比定9月1日付け、周布千寿丸(元兼)殿宛て、毛利右馬頭元就書状写。
  53. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, pp. 285–286.
  54. ^ a b c 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 286.
  55. ^ 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第179号、弘治2年(1556年)比定9月1日付け、周布下総守(兼遠)殿・吉地右衛門尉殿・松武大蔵少輔殿宛て、毛利元就書状写。
  56. ^ a b 『益田高友家文書』、弘治2年(1556年)比定9月3日付け、益田刑部少輔(兼貴)殿・益田伊豆守(兼順)殿宛て、(尼子)晴久書状。
  57. ^ a b 大田市教育委員会 2018, pp. 54–55.
  58. ^ a b 『閥閲録』巻66「刺賀佐左衛門」第5号、弘治3年(1557年)8月19日付け、刺賀治部少輔(吉信)殿宛て、(赤川)元保・(大庭)賢兼・(河屋)隆通・(波多野)興滋・(岩正)興致・(小原)隆言・(仁保)隆慰・(吉田)興種・(児玉)就忠・(粟屋)元親・(国司)元相・(桂)元忠連署状。
  59. ^ 山本浩樹 2007, p. 127.
  60. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 339–340.
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  62. ^ a b c 山本浩樹 2007, p. 128.
  63. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 342–343.
  64. ^ a b 大田市教育委員会 2018, p. 55.
  65. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 368.
  66. ^ 歴史群像シリーズ9 毛利元就』学習研究社、1988年。
  67. ^ 吉田龍司『毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男』新紀元社、2010年。
  68. ^ 小和田泰経『戦国合戦史事典~存亡を懸けた戦国864の戦い~』新紀元社、2010年。
  69. ^ 高田郡誌 上巻』、『大朝町史 上巻』、『岩国市史』等。
  70. ^ 大田市川合町忍原にある「名勝 忍原峡案内図」の案内板。
  71. ^ 原慶三 2000.

参考文献

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  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第14 熊谷家文書、三浦家文書、平賀家文書』東京帝国大学、1937年2月。 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 米原正義 校注『第二期 戦国史料叢書7 中国史料集』人物往来社、1966年9月。全国書誌番号:50007669 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:21490091 
  • 原慶三「尼子氏の石見国進出をめぐって―石見銀山・吉川・小笠原氏との関係を中心に―」『山陰史談』第29号、山陰歴史研究会、2000年8月。 
  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。ISBN 978-4642063227全国書誌番号:21255499 
  • 大田市教育委員会・『石見銀山学ことはじめ』編集委員会 編『石見銀山学ことはじめⅠ 始』大田市教育委員会、2018年3月。 
  • 大田市教育委員会 編『中世大田・石見銀山関係史料集』大田市・大田市教育委員会、2019年3月。 
  • 川本町教育委員会 編『中世川本・石見小笠原氏関係史料集』川本町・川本町教育委員会、2021年2月。 
  • 邑南町教育委員会 編『中世邑南町域関係史料集』邑南町・邑南町教育委員会、2024年3月。 
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻5「毛利宇右衛門」、巻43「出羽源八」、巻66「刺賀佐左衛門」、巻71「佐波庄三郎」、巻84「兒玉彌七郎」、巻121「周布吉兵衛」、巻133「山縣四郎三郎」、巻169「糸賀勘左衛門」