徳雲寺 (西尾市)
徳雲寺 | |
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所在地 | 愛知県西尾市吉良町吉田八ツ田45 |
位置 | 北緯34度47分40.6秒 東経137度03分54.7秒 / 北緯34.794611度 東経137.065194度座標: 北緯34度47分40.6秒 東経137度03分54.7秒 / 北緯34.794611度 東経137.065194度 |
山号 | 最勝王山 |
宗派 | 浄土宗 |
文化財 | 本堂、弁天堂(登録有形文化財) |
徳雲寺(とくうんじ)は、愛知県西尾市吉良町吉田八ツ田45にある浄土宗の寺院。山号は最勝王山。本堂と弁天堂が登録有形文化財[1][2]。布施行者として知られる尼僧の颯田本真[3]が開いた寺院である[1]。
歴史
[編集]颯田本真
[編集]弘化2年(1845年)11月28日、颯田本真(颯田本真尼)は幡豆郡吉田村(現・西尾市吉良町)の颯田清左衛門の長女として生まれた[4]。颯田清左衛門は信仰心の篤い豪農だった[5]。
文久2年(1862年)2月に庵を結んで慈教庵と号した[6]。20歳の時には1000日に渡って床に就かずに念仏を唱え続ける「不臥の念仏」を達成した[5]。慶応元年(1865年)以後には幡豆郡寺津村(現・西尾市寺津町)にある瑞松庵の実英尼の下で修行を行った[4]。
徳雲寺の建立
[編集]1879年(明治12年)5月9日に寺号を公称して徳雲寺となると[6]、1882年(明治15年)7月に本堂の建立を発願し、1883年(明治16年)9月に竣工して入仏式が行われた[4]。1890年(明治23年)の高潮では徳雲寺も被害を受けた[7]。1891年(明治24年)には濃尾地震が起こり、やはり徳雲寺も大きな被害を受けたとされる[7]。
弁天堂の建立
[編集]1918年(大正7年)7月、颯田本真の信徒で大阪に住む泉谷儀三郎は、了徳院から弁財天尊像を遷祀して弁天堂を建立した[4]。颯田本真はその後も精力的に窮民救済の活動を行い、1928年(昭和3年)に徳雲寺で死去した[4]。颯田本真は「日本のマザー・テレサ」と呼ばれることもある[5]。徳雲寺には颯田本真の小さな墓が建立されている[5]。
現代の動向
[編集]2016年(平成28年)4月8日、徳雲寺で颯田本真の90回忌法要が営まれた[8]。
吉良町には戦国武将の松井忠次が創建した法応寺があったが、1957年(昭和32年)に廃寺となると松井忠次の肖像画や仏像は東京に移された[9]。2018年(平成30年)には肖像画2点が西尾市に寄贈され、仏像4体が徳運寺に納められた[9]。2019年(令和元年)11月15日には肖像画が徳雲寺で公開された[9]。
2021年(令和3年)2月4日、本堂と弁天堂が登録有形文化財に登録された[1][2][10]。
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本堂の内部
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石塔
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手水舎
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本堂(左端)と弁天堂(右端)
文化財
[編集]登録有形文化財
[編集]- 本堂
- 弁天堂
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 徳雲寺本堂 文化遺産オンライン
- ^ a b c d e f g h i 徳雲寺弁天堂 文化遺産オンライン
- ^ 郷土の先人・先覚88 颯田本真 荘内日報社
- ^ a b c d e 徳雲寺 みかわこまち
- ^ a b c d 「明治大正昭和 あいち賢人 颯田本真尼(1845~1928) 日本のマザー・テレサ 被災者救済へ全国行脚」『中日新聞』2009年11月7日
- ^ a b 浅井岩次郎『吉田村史』吉田村、1915年、pp.176-177
- ^ a b 坂上雅翁「徳雲寺所蔵、颯田本真尼の新出資料」『関西国際大学研究紀要』第15号、2014年、pp.141-148
- ^ 「吉良出身の本真尼しのぶ 西尾 徳運寺で90回忌法要」『中日新聞』2016年4月9日
- ^ a b c 「都内から西尾へ 武将肖像画 60年ぶり帰還 家康の家臣・松井忠次描く 徳運寺で24日公開」『中日新聞』2019年11月15日
- ^ 「国登録有形文化財に4件答申 西尾・徳運寺 本堂と弁天堂 大府・明神樋門 明神川逆水樋門」『中日新聞』2020年7月18日
- ^ a b 徳雲寺本堂、徳雲寺弁天堂 愛知県
参考文献
[編集]- 浅井岩次郎『吉田村史』吉田村、1915年
外部リンク
[編集]- 徳雲寺本堂 文化遺産オンライン
- 徳雲寺弁天堂 文化遺産オンライン
- 徳雲寺本堂 西尾市
- 徳雲寺弁天堂 西尾市
- 徳雲寺本堂、徳雲寺弁天堂 愛知県